2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2005年3月26日)

○クアラ・クルト村のプカット・ソロン
 いよいよアチェ最終日である。早起きして6時には家を出発、クアラ・クルト村のプカット・ソロンを見に行った。20カ村近く支援してきたなかで、もっとも印象深い村の一つである。
 クアラ・クルト村は、「災難」つづきの村だ。津波で家がすべて破壊され、191世帯が避難生活を送る。1月25日、6人の男性がGAMに関与しているとして、タナ・パシール軍分支部(Koramil)兵士に逮捕された。Koramil兵士はさらに、クアラ・クルト村の別の住民19人(つぎに話を聞いたときは12人)がGAMに関与しているとして、投降するよう警告を与えたという。なぜ投降(出頭)しなくてはならないのかわからない住民は、それでも夜「誘拐」されるよりはマシだと出頭した。いまは、週1度の出頭義務を課せられているらしい。
 さらに2月10日には、援助物資のインスタントラーメンが原因で、200人以上が食中毒になり、病院に運ばれた。タナ・パシール郡の避難キャンプは、郡役場、Koramil、郡警の三者が管理している。キャンプを訪問する人は、キャンプ内に設置された郡役場の「救援ポスト」で許可を取る必要がある。実は、この救援ポストが厄介な代物で、かなりの援助物資を隠匿してしまっていると伝えられている。被災者がどれだけ要求しても「ない」と言われつづけたミルクも、食中毒になって、嘔吐用にはじめて何箱も与えられた。被災者は、もちろん、「いまさらミルクをもらっても……」と嘆いていた。
 この救援ポストは、わざわざマグリブ中に、援助物資を受け取るよう呼び出しをかけて、問題になっている。マグリブというのは、イスラームで4回目、日没の礼拝のことである。北アチェ県・ロスマウェ市一帯では、人びとは外出を避け、家のなかで静かにマグリブの時間を迎える。被災者たちは、「あちらでも、こちらでも、モスクから『アッラー・アクバル』と聞こえてくるのに、キャンプでは『ハロー、ハロー』と呼び出しだ。しかも祈祷していて、物資を取りに行かないと、物資をもらえないんだ」と怒りをあらわにする。さらに、この呼び出し用スピーカーでは、未明に「キャンプを片付けろ。お前ら、豚のようだ」といった侮辱的な放送までされた。
 堪えきれなくなった被災者たちは、3月12日、キャンプを出て、クアラ・クルト村に戻った。キャンプに残った被災者たちも緊張し、女性たちが男性たちを囲うようにして、つまり男性たちが「誘拐」されないようにして、夜を過ごしたという。13日、クアラ・クルト村周辺は緊迫していた。わたし自身も、2度も国軍兵士に止められ、村に行く目的など説明させられた。北アチェ県知事からの活動に対する推薦状がなければ、村には行くことができなかっただろう。荷物をまとめて、トラックを借りて、村に戻ろうとする人びとが、国軍詰所の前で止められ、全員引き返させられている。12日のうちに村に入った人びとと、キャンプに残った人びとと、バラバラにさせられてしまった。
c0035102_244418.jpg 最終的には、全員がキャンプに戻ったが、「キャンプに戻れば、国軍に誘拐される」と数晩、被災者たちが転々としている様子は、地震・津波後も、実は好転していない人権状況をうかがわせるのに十分だった。
 そのクアラ・クルト村の人びとが、現在、未明の3時にキャンプを出発して、2時間もかけて村まで歩き、朝5時から8時近くまでの干潮の時間を利用して、プカット・ソロンに励んでいる。c0035102_25610.jpg写真で、3人並んだ男性は、みな津波で妻を失ったという。それでも、彼らは海に戻っている。家もなく、人も住んでいない村に、エビの仲買人も戻ってきていた。

○西バクティア郡への支援
 実は、これまでまったく情報が入らず、支援対象から抜け落ちていたのが西バクティア郡である。スヌドン郡とタナ・パシール郡のあいだに位置し、海に面している地域は非常に少ないが、その地域は完全に破壊されていた。しかし世帯数が少ないせいか、「危険地域」のせいか、つい数日前まで、ここで支援を求めている被災者がいると知らなかった。
 タナ・パシール郡から、そのまま西バクティア郡に向かったが、途中、海兵隊に止められ、追い返されてしまう。北アチェ県知事からの手紙があったため、非常に丁寧な応対ではあったが、「昨日も武力衝突がありましたので」と言われてしまった。
c0035102_274541.jpg かなりの遠回りをして、西バクティア郡ロッ・インチン村にやっとたどり着く。タナ・パシール郡クアラ・チャンコイ村(ここもサウォッの支援した村、なんと女性たちがプカット・ソロンする!)と分ける川の橋が落ち、そのままになっている。筏で渡らなくてはならない。
 被災者と話をしていると、近くにある海兵隊詰所から、すぐ兵士がやってくる。「何をしているんだ?」と、非常に強圧的な態度。被災者が動揺して、「このあたりの状況を見てもらっているんです」と説明する。わたしが、おもむろに北アチェ県知事からの手紙を取り出し、兵士に渡す。兵士は、もはや何も口を出せなくなってしまい、手紙を返して、引き上げていった。被災者のおじさんたち、わたしを見ながら「魔法の手紙」とうれしそうである。
c0035102_275543.jpg 西バクティア郡には、やはり外国からの援助がまったくないらしい。わたしが、はじめての外国人だという。政府からの援助も、最初の2週間だけ。ここには、物資を運んでくる必要もありそうだ。プカット・ソロンする人がいないというので、養殖池に仕掛けるカニとりカゴ(ブゥベェ)の支援をすることにする。

○今後の活動について会議
 次回は、ゴールデンウィークを利用して、アチェに戻ってくるつもりだが、1カ月のお別れになる。もしかしたら、軍事戒厳令のときのように、2年間戻れないということもあるかもしれない。
 わたしがいないあいだの活動の進め方について、友人たちと話し合いをする。BCA銀行同士の口座なら、インターネットバンキングでの振込ができるため、当面は電子メールで連絡を取り合いながら、必要に応じて経費を振り込んでいくことになった。
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by NINDJA | 2005-03-27 01:40 | NINDJAの救援活動