2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2005年5月4日)

○マタン・スリメン集落訪問
 4月27日の活動報告で流しましたが、サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落は、タナ・パシール郡西クアラ・クルト村と並んで、ハンセン病患者が「隔離」されてきた集落です。
 元の集落は、海から約100m程度で、津波ですべて流されました。しかしクタ・クルン村の住民と同じキャンプでも、仮設住宅(サムドゥラ郡ブリンギン村)でも、受入れを拒否され、いまはサムドゥラ・パセー王国の女王ナリシャのお墓の前にある観光局所有の小屋で、 84人が避難生活を送っています。ここにはサウォッ・サベェ 14、サウォッ・シラン8、ジャラ5、漁網3の支援をおこないました。
c0035102_331329.jpg 上記報告で流したように、男性たちは小屋の前に建てたテントで寝泊りしており、雨が降るとびしょぬれになってしまうというので、屋根を支援することになりました。今日は、屋根の骨格をつくるための竹と、屋根を葺くためのルンビアの葉がどのくらい必要かを確認しに行ったのです。
 すでに半年ほどつづく西風の季節に入っており、サウォッでおこなうエビ漁(プカット・ソロン)のシーズンは終わってしまいました。いまもエビ漁をおこなっているようですが、1日6000ルピア程度の収入にしかなりません。まったく収入がないよりはマシですが、なにか季節に左右されない生業の支援をおこないたいところです。
 ただ人びとに聞くと、もともとエビ漁以外の生業はなかったとのこと。では、どうやって暮らしていたのかといえば、津波前には、社会省から、重度のハンセン病患者に対して、1人あたり月にコメ30kg、砂糖5kg、食用油5kg、塩干魚、緑豆などの支援があったらしいのです。津波後、この支援が途絶えてしまい、人びとはかなり困難な状況に追い込まれています。しかし、人びとは、自分たちがどこでも受け入れられないこと、支援を受けられないこと、すべてを諦めています。
 人びとと話をしていると、糖尿病にかかったというおじいさんが、「薬代1万5000ルピア支援してほしい」と言ってきました。支援したいけれども、1人だけに支援するわけにもいかないと考え、人びとが「クチッ(アチェ語で村長)」と呼ぶ集落長に50万ルピアを預け、同様の必要性があるときに渡してもらうよう頼みました。
 しかし集落長は慎重でした。何が問題が起きたら困るというのです。集落長や人びとと話し合い、集落長に、無償で治療を受けられるJPSという書類を全員分取得してもらうことにし、50万ルピアをJPS取得にかかる交通費などの経費にあててもらうことになりました。JPSというものがあること自体、わたしは知らなかったので、人びとと話し合うことで、よりよい方法を見つけられるんだと再確認させられました。

○西ランチャン村訪問
 マタン・スリメン集落のあとは、西ランチャン村の水道を確認しに行きました。昼間でしたが、子どもたちがマンディ(水浴び)し、女性たちが洗濯をしています。
c0035102_334440.jpg 6万円程度の経費で川から引いた水道のため、けっしてきれいな水とはいえないのですが(日本人のほとんどは、あの水で洗顔や歯磨きするのを躊躇するだろうなぁ)、いままで塩水しか出ず、子どもたちが学校に行く前にマンディできないという状況よりはずっとマシになっています。子どもたちは、何度も何度も、コンクリ槽から水を汲んで、ざぶざぶ浴びています。いまは4回も5回もマンディしているとか。
 コンクリ槽がつくられた2カ所を確認し、工事が無事終了したことを確認したあと、村の女性たちと高床式のあずまやで休憩です。ヤシの実をもらって、のどの渇きをいやし、30分ほどおしゃべり。
 わたしたちが村を離れるとき、飲料水を運んだトラックが来て、あずまやの近く、村のもっとも奥に停まりました。女性も子どもも、とにかく一家総出で、急いで家に走ります。遠い人は500mくらい走らなくてはなりません。家にあるバケツ、ポリタンク、ありとあらゆる容器をもって、トラックまで引き返します。たいへんだろうと思いますが、それでも水が取りに行く人びとの顔は、うれしそうなのでした。
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by NINDJA | 2005-05-05 01:01 | NINDJAの救援活動