●活動報告(2005年8月7日)
2005年 08月 08日
8月4日、北スマトラ州メダンからバスで、ロスマウェ入りしました。飛行機で行けば35万ルピア(1円=87ルピア)、45分の距離ですが、バスだと4万ルピア、8時間かかります。とはいえ、アチェ行きのバスの出るメダンのガジャ・マダ通りに着くや否や、アチェ語しか聞こえてこない雰囲気が、「アチェに戻ってきた」と実感させてくれて、なんとも幸せな気分になります。ロスマウェ到着は夜中の1時半。皮肉なことですが、こんな時間でも移動できるようになったのは、津波の「おかげ」です。
8月5日、6日は、この間の活動報告やら、借家の賃貸契約の更新やらに追われました。ちなみにロスマウェで借りている家の家賃は1年に500万ルピア。津波後、国際機関や外国NGOがなだれ込んだことで、家賃が月に2000万ルピアだの5000万ルピアだのになったバンダ・アチェと比べると格安です。もっとも、この家を借りたのは5年前で、ずっとこの値段のまま賃貸契約を更新しているために、家主は「年に1500万ルピアで借りるという人もいるのに」と渋い顔ですが。
本日7日から、本格的に(?)活動を開始しました。今日は、スヌドン郡マタン・パニャン村にて、漁具の供与です。
マタン・パニャン村
ブベェ8人(各15個)/クラプ用魚網 12人
ムナサ・サゴ村
ブベェ13人(同上)/カドラ用魚網12人/カカップ用魚網1人/サウォッ・シラン4人/クラプ用魚網13人/アポロ(エビ)魚網2人
ロッ・プウク村
ブベェ8人(同上)/クラプ用魚網13人/カドラ用魚網15人
ちなみに、これまでに漁具や塩づくり器具を提供した人数を計算したら、1721人になっていました。津波から7カ月たちますが、いまだに生活再建支援はほとんどありません。漁船の供与というのはよく聞きますが、下請け、下請け…の結果、製作費が激減し、つかえない漁船が供与されたとか、パンリマ・ラウット(海の慣習法長)にカネを払わないと漁船をもらえないとか、村長が漁民でない住民の身分証明書を集めて漁船を独占したとか、悪いうわさもついてまわっています。
スヌドン郡の被災者たちは、一部が仮設住宅に入居し、足りなかった分は、住民が元の村に戻って掘っ立て小屋を建てています。スヌドン郡の場合、チョッ・パティサに仮設住宅が建てられ、マタン・パニャン、ムナサ・サゴ、ロッ・プウク、ウレェ・ルベック、マタン・プントン村の住民が入居しました。この5カ村が、住民いわく「仮設住宅(バラック)村」をつくり、村長、トゥンク(イスラーム指導者)など定めたようです。
元の村に戻ってきた被災者の一人は、少しでも子どもたちが勉強し、遊べる場が必要だということで、自分の家の庭にテントを張り、幼稚園を開いていました。いまは45人の子どもたちが、無料で、ここに集まっています。遊び道具はビー玉、輪ゴムでつくった縄跳びのみ。天井も床も、避難民キャンプでつかっていたビニールシートですが、それでも子どもたちが集まれる場があるというのは大事なのだろうと思いました。
8月5日、6日は、この間の活動報告やら、借家の賃貸契約の更新やらに追われました。ちなみにロスマウェで借りている家の家賃は1年に500万ルピア。津波後、国際機関や外国NGOがなだれ込んだことで、家賃が月に2000万ルピアだの5000万ルピアだのになったバンダ・アチェと比べると格安です。もっとも、この家を借りたのは5年前で、ずっとこの値段のまま賃貸契約を更新しているために、家主は「年に1500万ルピアで借りるという人もいるのに」と渋い顔ですが。
本日7日から、本格的に(?)活動を開始しました。今日は、スヌドン郡マタン・パニャン村にて、漁具の供与です。
マタン・パニャン村
ブベェ8人(各15個)/クラプ用魚網 12人
ムナサ・サゴ村
ブベェ13人(同上)/カドラ用魚網12人/カカップ用魚網1人/サウォッ・シラン4人/クラプ用魚網13人/アポロ(エビ)魚網2人
ロッ・プウク村
ブベェ8人(同上)/クラプ用魚網13人/カドラ用魚網15人
ちなみに、これまでに漁具や塩づくり器具を提供した人数を計算したら、1721人になっていました。津波から7カ月たちますが、いまだに生活再建支援はほとんどありません。漁船の供与というのはよく聞きますが、下請け、下請け…の結果、製作費が激減し、つかえない漁船が供与されたとか、パンリマ・ラウット(海の慣習法長)にカネを払わないと漁船をもらえないとか、村長が漁民でない住民の身分証明書を集めて漁船を独占したとか、悪いうわさもついてまわっています。
スヌドン郡の被災者たちは、一部が仮設住宅に入居し、足りなかった分は、住民が元の村に戻って掘っ立て小屋を建てています。スヌドン郡の場合、チョッ・パティサに仮設住宅が建てられ、マタン・パニャン、ムナサ・サゴ、ロッ・プウク、ウレェ・ルベック、マタン・プントン村の住民が入居しました。この5カ村が、住民いわく「仮設住宅(バラック)村」をつくり、村長、トゥンク(イスラーム指導者)など定めたようです。
元の村に戻ってきた被災者の一人は、少しでも子どもたちが勉強し、遊べる場が必要だということで、自分の家の庭にテントを張り、幼稚園を開いていました。いまは45人の子どもたちが、無料で、ここに集まっています。遊び道具はビー玉、輪ゴムでつくった縄跳びのみ。天井も床も、避難民キャンプでつかっていたビニールシートですが、それでも子どもたちが集まれる場があるというのは大事なのだろうと思いました。
by NINDJA
| 2005-08-08 04:57
| NINDJAの救援活動