2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2005年8月22日)

○銃弾の痕残るブランデ・パヤ村
 西バクティア郡は、海に面している地域が少ないせいか、幹線道路から遠いせいか、自由アチェ運動(GAM)の拠点のひとつのせいか、いまも支援の手が届かないでいます。わたしが唯一の外国人で、本当に些細な支援かできていないにもかかわらず、「頼れるのはアッラーの神とナツコ」と言われるほどです(自慢ではなく、それほどに状況がひどいということのあらわれです)。いまも人びとは、支援した漁具で獲れたカニやエビをロスマウェまで届けてくれます。これまで訪問できずにいた村も含め、今日は西バクティア郡を訪れました。
c0035102_14582434.jpg 最初に訪れたのはブランデ・パヤ村です。川(河口)で、サンパン(カヌー)に乗った漁民が、マングローブの下にブベェ(カニ獲り籠)を仕掛けています。ブベェには、カブトガニもかかります。このブベェでカニを獲り、サンポイニッ(西バクティア郡庁所在地)の人が所有するクランバに入れて、1週間ほどカニの中身が詰まるようにし、その売り上げの一部をもらうのだそうです。干潮時にはジャラ(投網)でカニを獲ることもできます。何の物音もせず、静かな時間が流れます。
 しかし、ここでは2回、流血事件がありました。アチェが軍事作戦地域に指定された直後の90年に2人、2001年に3人が川岸に建っている掘っ立て小屋で殺害されたのです。2001年の事件では、3人のうち2人がGAMメンバーで、国軍と銃撃戦になったのです。そのとき一緒に殺害されたのは高校生だったといいます。この掘っ立て小屋には、いまも銃弾の痕が残っています。
 実は、今朝も「事件」が起きたばかりでした。ロッ・ウンチン村にある海兵隊第5大隊詰所に男性が呼び出され、しゃがんだ格好で歩かされたのです。男性は、理由がわからないと言います。周囲で、「ちゃんと出頭していなかったんじゃないの?」とおじさんたちが聞いています。
c0035102_1459734.jpg 西バクティア郡では、いまだに男性たちが毎週、海兵隊詰所に出頭する義務があります。軍事戒厳令以降の住民管理政策のひとつである出頭義務は、津波後、北アチェ県海岸沿いのほとんどの地域で実施されなくなりましたが、西バクティア郡ではまだ残っているのです。
 この男性は出頭していたため、なぜ「運動」させられたのか、みなで首をかしげていました。しかし、こんなことは日常茶飯事。男性たちは、軍とはそういうものだと悟りの境地です。和平についても、みな期待していなそうです。

○津波後、男たちは出稼ぎに
 いままで一度も訪れられず、支援もできずにいたのがブラン・ルゥ村です。林のなかの道なき道の先に、男性たちが漁をする場所があります。しばしば海兵隊部隊がここで野営するため、来ないほうがいい、と言われていたのです。
 なんと、ここでもRapa-iの人(8月8日の活動報告を参照)に会いました。十数台のトラックのなかで、もっともわたしが気に入ったトラックに乗り込んで出会ったのが「Grup Rapa-i Pase Rencong Pusaka Raja Buah」の人びと。みな主催のAceh Kita財団の黒いTシャツを着るなか、彼らだけ青いTシャツで、「これは選りすぐられた人たちだけに与えられたんだ」と誇らしげでした。西バクティア郡出身とは聞いていましたが、まさか支援対象村で青いTシャツと出会うことになるとは思っていませんでした。聞くと、Rapa-iはブランデ・パヤ村のグループ長のところに置いてあるそうで、「早く言ってくれれば」と一緒にいたおじさんたちに言われてしまいました。
 ブラン・ルゥ村の男性たちのなかには、津波で養殖池が破壊されてしまい、漁具も流されるかボロボロになってしまったために、バンダ・アチェまで出稼ぎに出ている人もいるようです。バンダ・アチェでは仮設住宅建築のために人手を必要としており、村の男性たちは漁民から大工へ(おそらく一時的に)転身したのです。
 ここではブベェ、アンベ(刺し網)、ジャラという、ほかの村に供与した漁具のほかに、サンパン(1隻1万円程度と思われる)を求められました。サンパンは、ほかの村からも要請が出ています。西バクティア郡は、わたしがみた津波被災地のなかでも最貧困地域で、支援もないことから、支援したいと思っていますが、その場合5カ村全部にいきわたらねばなりません。現時点で残っているカンパが約600万円。ほかの地域の要請もあり、実現するかどうか…。
 さらに湿疹のできている子どもが多く、郡の保健所では治らなかったため、病院に連れて行きたいと、お母さんたちから言われました。交通費もない人びとのため、サンポイニッでスダコ(小型乗合自動車)をチャーターし、ロスマウェのチュッ・ムティア病院間の送迎をすることになりました。その前に、無料で治療を受けられるJPSという書類をそろえてもらうようお願いしました。

○軍への「お土産」

c0035102_15074.jpg 最後に訪れたのはロッ・ウンチン村。前出の海兵隊詰所がある村です。子どもたちがコーラン詠みの練習をする施設の支援を要請されていました。いまの建物は津波のときに階段が流され、コーランやキタブ(聖典)もボロボロ。なにが必要かの相談をしに来たのです。
 この村も海兵隊に苦しめられています。海兵隊部隊の交替時には、レンチョン(アチェの伝統的な短刀)をお土産にもってかえりたいから買って来いと命じられた、携帯電話のプリペイドカード、タバコを買いに行かされることはしばしば。男性たちが、それぞれの体験談を話してくれます。ちなみにレンチョンは12万ルピアのものがいいと指定までされ、8本買わされた男性は96万ルピアの支出です。なかには携帯電話(230万ルピア)を買わされた男性もいます。「ジャワでは携帯電話などもったことない兵士が、自分たちに携帯を買わせるんだから。しかも安いのではイヤだと言うんだから」
 おカネは払ってくれないの?と聞くと、「そんな兵士いるわけない」と一言。借金してでも軍の要求するものを買うことで、自分たちの無事を買っていると、男性たちは思っています。

○西クアラ・クルト村の柵問題
 7月11日、8月11日、16日にお伝えした柵問題を解決するため、16時からは西クアラ・クルト村で女性たちと会合です。隣の郡ですが、一度幹線道路に出なくてはならず、非常に不便です。この間、毎日200km以上の道のり、しかもデコボコ道を走っているので、車もすぐ痛むだろうと予想されます。
 さて肝心の柵問題ですが、土地のない女性に別の支援を提案し、ヤギ飼育という案が出たところ、予想どおり、とくに若い女性たちから、自分たちも柵をやめてヤギ飼育に切り替えたいという意見が出ました。ここから女性たちの言い争い。
 西クアラ・クルト村は、仮設住宅に住む被災者と、元の村に戻ってきた被災者とに分かれています。仮設住宅に住む被災者は、海に近い元の村に戻りたくないと考えており、元の村に戻ってきたハンセン病患者を中心とする被災者は、ぬかるみに建っている仮設住宅では暮らしていけないと考えています。ここから、いつでも両者のあいだが対立してしまっているようなのです。
c0035102_15218.jpg 「わたしたちが柵を頼んだわけではない」という意見まで、仮設住宅に住む女性たちから出てきます。NGO活動をはじめたばかりのスタッフでは収拾つかず、悩みに悩んで、けっきょく、わたしが口を出してしまいました(いまも口を出してよかったのか悩んでいるのですが)。女性たちが団結してほしいこと、そうでなければ支援することにも躊躇せざるを得ないことを伝えると、一人の女性が「じゃぁ、みんな柵でいいわよ!」と言います。では土地のない人はどうするのか聞くと、「もらった竹や器具を売ればいい」と別の女性。これに対して、周囲の女性がまた声を荒げ、騒然とします。
 けっきょく、柵を希望する女性には柵、ヤギ飼育を希望する女性にはヤギ、両者ともほぼ同額、ということで落ち着いた、と思いきや、「ミシンが欲しい」「資本が欲しい」といった声も出てきて、また一騒動。
 146億円の支援を決めた日本政府の人間でもなく、政府や国連などから助成金を受けている大きなNGOでもないわたしができることは限られていますし、日本で小学生がお年玉をカンパしてくれたり、学生がコンサートや写真展を開いてカンパを集めてくれたりした姿を思い浮かべると悲しくなってしまいました。
 わたしが届けるのは、こういう日本の人びとからの支援であることを理解して欲しいとお願いし、女性たちも納得してくれたようでした(と信じたい)。柵にかかる費用とあわせて、ヤギを1頭ならメス、2頭ならメスとオスを支援することで決着、47人からそれぞれの希望を聞いて決着です。
 本当に住民の意思を反映できていないという思いとともに、けっきょくおカネをもっているわたしのほうが立場が強いということに、ひどく落ち込んでしまいました。少しでも、そうではないかたちでの支援をおこないたいと思って努力しているつもりなのですが、本当に難しいです。
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by NINDJA | 2005-08-23 01:56 | NINDJAの救援活動