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2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2005年9月4日~8日)

○警察に復讐(できるかな?)
 9月4日午後からスヌドン郡に行きました。新たに塩づくりをはじめたマタン・ラダ村の人びとと、器具買い付けの日にちを相談するほか、いくつかの村で追加の漁具支援を頼まれており、そのデータをとりにいくためです。
 マタン・パニャン村の被災男性、我が家に住む女の子2人、スタッフ、わたしと5人でアチェ音楽を聴きながら、気分よく車を走らせていると、ロスコン郡警察の一斉検問です。運転免許証、車両証を提示すると、一人の警官が「これはサバンの車だ。○○証はどこだ?(○○はあれこれ変わったので、結局わからず)それがなければ、違法車と判断するぞ」といきなり怒鳴ってきました。ほかの警官は「前進してください」と言っているにもかかわらずです。
 たしかに、わたしの車はサバン自由貿易港から入った中古車ですが、プレートナンバーはアチェ内しか運転できないNAではなく、州外に出られるもの。書類不備でもない。納得できないわたしが説明を求めると、「なんだ、お前は! 威張りやがって!」とさらに怒鳴られます。気の早いわたしも怒って、「(ロスマウェ)市長に電話する」と脅すと、「なんだ市長って、お前の親戚か?」。さらにこの警官の名前を尋ねると、「なんだ、お前は!」とまたまた怒鳴られます。
 無視して市長に電話したのですが、ちょうど電話は圏外。バンダ・アチェで車を探してくれた友人に電話しているあいだに、この警官は隣に座った友人に「携帯の度数がもったいないだろう。コーヒー代を払ったほうがいい(ここは小声)」「俺が発砲したら、住民がかわいそうだろう(なんの関係があるのか!)」などと言いつづけていたようです。
 それを知らないわたしが、冷静に「やはり、わたしの車は問題がないようですが、いったい何が足りないのですか」と質問。本当はカネ目当てなのに、わたしにそれを言えない彼は、「俺の忍耐もここまでだ。署に来るのか、ここで解決したいのか」と怒鳴るだけ。さらにプッツンきてしまったらしく、防弾チョッキで隠されていた胸章を見せ、「これが俺の名前だ!」
 友人と2人で、署に行く場合の手続きを聞いたあと、「ここで解決とはどういうことですか?」とわかりきった質問をすると、「要するに、和平ということだ!」
 というわけで、いくら払えば妥当かわからないわたしは、あとで友人に怒られるほどの額(6万ルピア=650円くらい)を払ってしまいました。でも悔しいので、ロスマウェ市長などなどに、このジャワ人警官の名前を送りつけました。ロスマウェ市長は「いまバンドゥンにいるが、ロスマウェに戻り次第、県警署長と話す」と言ってくれましたが、さてどうなったか。
 それにしても、こんな不合理なことを、アチェの人びとは日常的に忍耐しているのだと思うと、本当に腹が立ちます。この警官は、わたしが外国人だと認識できていなかったようだけど、わたしは外国人であり、いざというときはおエラいさんに頼める身だからいいですが、そうでない人びとは泣き寝入りです。下手にさからって、自由アチェ運動(GAM)と非難されれば、命の保証もないわけですから。あーあ、和平はどこにいった?

○ジャファルの死から5年
●活動報告(2005年9月4日~8日)_c0035102_1985123.jpg 9月5日はジャファル・シディックの墓参りに行ってきました。5年前の8月4日、北スマトラ州メダンで誘拐され、9月になって遺体で発見された人権活動家です。誘拐される直前には、日本にアチェ問題について訴えに来てくれました。誘拐されたとわかったのも、わたしとの約束に現れなかったことがきっかけでした(詳細は『アチェの声』をお読みいただけると幸いです)。
 9月5日は、当時発見された遺体がジャファルのものではないかという報道がはじめてあった日です。ジャファルが殺害された日がわからないため、埋葬された8日が「命日」になるのかもしれませんが、8日にはロスマウェを発たなくてはならないため、5日にしたのです。
 2年間の戒厳令中は北アチェ県に来られませんでしたので、ジャファルの墓参りも 3年ぶりになります。5年前の埋葬から考えると、隔世の感があります。メダンから遺体が移送されるというので、20時ごろジャファルの家に向かいました。当時は20時というと、怖くて外に出られない時間でした。車も人もいないなか、ベチャに乗ってジャファルの家に向かったことを思い出します。
 ジャファルの家には「2005」とペンキで大きく描かれています。これは5年前からあったものでした。ジャファルが描かせたというのですが、なにを思ったのでしょうか。2005年に和平合意が結ばれるという予感があったのでしょうか。

○「われわれは誰をも疑っている」
 9月6日、西バクティア郡に行ってきました。帰国前に、海兵隊に出頭するためです。津波被害を受けたほかの地域は問題ないのに、なぜ西バクティア郡だけ出頭を命じられるのでしょうか(8月28日の活動報告を参照)。
 出頭して話をしていると、「作戦をしている地域について、安全だと考えたことはない」「われわれは誰をも疑っている」「ここの人びとも笑っているが、実際には恐ろしいものだ」といったことばが、海兵隊員から飛び出します。
 和平でしょ? 作戦はしていないでしょ? なんて聞いても、通用しないし、住民に迷惑がかかるだけなので、ヘラヘラ笑いながら、海兵隊が飼っている犬をかまっていました。この犬、かわいそうなことに、わき腹に「5」と大きく毛が刈られていました。海兵隊第5大隊の意味ですね。
 ロッ・ウンチン村のコーラン詠みの施設は、ほぼ完成に近づいていました。あとはペンキを塗るだけです。村の大工さんと、水道についても話し合い、被災者支援のほうは順調です。
 被災者から、大量に干エビをもらって帰りました。わたしが日本にもってかえれるように、前々から被災者のあいだで集めていてくれたそうです。でも、結局冷蔵庫に入れたまま忘れてきてしまいました。おじさん、ごめんなさい。

○そしてロスマウェ発
 7日はラパ・イ(太鼓)とスルネカレー(笛)の練習。スルネカレーを吹くには、息を吐きながら吸うという、高等な呼吸法が必要です。飽きっぽいわたしは、たぶん挫折するでしょう。ラパ・イには2種類あり、わたしが練習したのは、小さなラパ・イ・プサンガンです。4種類の音を出すことができます。ラパ・イだけでも、スルネカレーだけでもイマイチなのですが、これが組み合わさると、なんとなく哀愁漂うアチェの伝統的音楽になります。
 ラパ・イとスルネカレーを抱えて、8日はロスマウェ出発です。あっという間の1カ月でした。「津波のおかげで」北アチェ県に戻ってくることができるようになり、今年に入り、大学の休みの時期にはずっとアチェにいます。日に日に、日本から切り離されていく自分を感じています。日本に戻って適応できるのでしょうか。
 本当はジャタユ機でロスマウェ→メダン→ジャカルタと飛ぶはずでしたが、技術的理由でジャタユのフライトがなくなり、メダンまではバスでした。警察の違法徴収が増えているのが驚きでした。
 バスの話題は、治安部隊の違法徴収とマンダラ機事故。マンダラ機には2トンのドリアンが積まれていたため、重量オーバーで離陸できなかったというのです。マンダラ職員がカネのため、ドリアンをスマトラからジャカルタに送ろうとしたのが原因というのですが…。
 現在、インドネシアは石油危機でもあります。いつの間にか石油輸入国となり、また経済立て直しのための燃料補助金削減→燃料費値上がりも問題になっています。が、実は、どうも国営石油公社(プルタミナ)、治安部隊あたりがグルで、石油を横流ししていたようです。最近のホットなニュースです。
 こういうニュースやら噂話やらを聞いていると、インドネシアが国家として、それでも成立しているのが不思議にすらなります。かなりの破綻国家だと思うのですが、ジャカルタは高層ビルが燦燦と輝き、ロスマウェからのおのぼりさんであるわたしには、同じ国のなかとは思えない別天地だったのでした。
by NINDJA | 2005-09-10 21:11 | NINDJAの救援活動