2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

●活動報告(2006年2月25~26日)

○巨大井戸の贈呈式
 25日、西バクティア郡ロッ・ウンチン村の巨大井戸の贈呈式がありました。住民たちからの要請です。朝から、男性たちは、ヤギ3頭を解体し、若いバナナの実、カブなどと煮込んで、カレーをつくるのに大忙しです。
 アチェでは、犠牲祭など特別なときにヤギを解体します。解体するのは、イスラームの祈祷を欠かさず、村で尊敬されている男性です。ここでも、村のトゥンク(イスラーム指導者)が祈りの言葉を唱えながら、ヤギの首を斬ります。日本のと場問題について少し話すと、アチェの友人は驚いていました。
 贈呈式は10台のラパイ・パセ(大太鼓)ではじまります。05年8月、和平合意の調印を願って、バンダ・アチェから東アチェ県まで、ラパイ・パセの行進がありました(05年8月8日の活動報告を参照)。このとき出会った、もっとも優れたラパイ・パセの打者グループが、実はわたしたちが支援した西バクティア郡の村々の出身だったのです。ラパイ・パセの響きにとりつかれたわたしは、彼らのラパイをもう一度聴きたいと思っていました。その夢がかなったことになります。
c0035102_211575.jpg 小柄なグループの代表は、軽々とラパイ・パセを叩いています。どうして、こんなに太く体を震わすような音が出るのかわからないほどです。ラパイ・パセでは2種類の音しか出せませんが、リズムを少しずつ変えながら、ときに5台ずつ競いあいながら、男性たちはラパイ・パセを叩きつづきます。何時間聴いていても、飽きることはありません。
 10人によるラパイ・パセの演奏が終わったあとも、村の男性たちは交互にラパイ・パセを叩いています。みな、本当にラパイ・パセが好きなのです。25日夜中、ロスコン郡チョッ・ギレッで、チョッ・ギレッのグループとラパイ・パセ合計50台の競演があるため、西バクティア郡のいいラパイ・パセは温存されていることがわかりました。男性たちに誘われ、みんなで夜中、チョッ・ギレッまで行くことにしました。
 ラパイ・パセのあとは、制服を支援した女子中学生による小さなラパイと踊り、歌の披露です。正直、ラパイ・パセの迫力にはかすんでしまったかもしれません。巨大井戸のプシジュッ(清めの儀式)が終わり、いよいよヤギ・カレー。バケツに入れられたカレーが、あちらにもこちらにも配られ、すごい勢いで消費されていきます。みんな、血圧が上がらないか、ちょっと心配です。

○マタン・スリメン集落でのゴトン・ロヨン
c0035102_2122528.jpg 西バクティア郡での贈呈式後、マタン・スリメン集落です。雨季でトラックが入れず、道路の修復が延び延びになっていました。
 土砂と鍬、スコップなどはわたしたちからの支援ですが、実際の作業は集落の人びとのゴトン・ロヨン(相互扶助)でおこなわれます。ハンセン病で手や足の第一、第二関節までなくした男性も、女性も、トラックが石混じりの土砂を運んでくるたびに、鍬をもって均しに行きます。
 実は、生まれて30年以上、鍬をもったことがなかったわたしは、確実に役に立っていませんでした。女性たちには「あの格好!」と大笑いされたぐらいです。1~2時間程度でしたが、集落の人びとと一緒に汗を流し、一緒に涼むのは、やはり楽しく幸せです。

○再びラパイ・パセ
 汗だくだくになって家に戻り、マンディ(水浴)し、少し休憩してから、チョッ・ギレッに向かいます。エクソン・モービルのガス田や、ジャワ人移住村から近いため、道路は舗装されており、ほかの地域のことを考えると不思議なほどです。
 ラパイ・パセの競演は23時すぎにはじまりました。簡単に組まれた棒からラパイ・パセが吊るされ、その周りには男性たちが集まっています。周囲どころか、ラパイ・パセの下にしゃがんでいる男性たちもいます。すごい熱気です。
 ラパイ・パセの演奏については、もはや言葉がありません。地面が揺れるほどの迫力でした。渾身の力を込め、ラパイ・パセを叩きつづける男性たち、その響きに興奮している男性たちの姿を見て、アチェはマッチョ社会だとつくづく実感してしまいました。国軍・警察部隊が、アチェでの任務に就くことを恐れたのも理解できるような気がします。

○思い出をたどったパヤ・バコン
 26日はパヤ・バコン郡に行きました。2001年8月、かなりギリギリの思いをしながら、人権状況の調査をした地域です。そのときに村々を案内してくれた3人のうち1人は殺害され、1人は米国に亡命しました。軍事作戦の激化にともない、以来、この地域を訪れることはできませんでした。
 4年半前と比べると拍子抜けするほどに、平穏な道のりです。エクソン・モービルの第1~第4クラスターでも、国軍の姿はほとんど見られません。警備するのも、国軍から警察になっています。
 友人たちと4年半前に訪れたときのことを思い出しながら、パヤ・バコン郡へと向かいました。なかでも、もっとも印象に残っているのは、家で寝ているところ、国軍部隊に包囲され撃たれたおじいさんです。妻は即死、おじいさんは額から銃弾が入り、片目を失いました。そのおじいさんも、第1軍事戒厳令(03年5月~11月)のときに亡くなったそうです。オランダ時代から平和なアチェを知ることなく死んでいったおじいさんは、最期に何を考えたのでしょうか。おじいさんの家は、いまはもうなく、野原になっていました。
 アル・ロッ村では2000年、03年の2回、国軍兵士が女性たちをレイプする事件が起きました。昨年3月に彼女たちと会い、それ以来、彼女たちの子どもに奨学金の支援をしています。彼女たちもまた、平和だったアチェの記憶がありません。彼女たちが物心ついたときには、北アチェ県は軍事作戦地域に指定されていました(89年~98年)。はじめての平和な状況が長くつづいてほしい。それが彼女たちの思いです。
[PR]
by NINDJA | 2006-02-26 21:00 | NINDJAの救援活動