2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2005年2月6日)

c0035102_2471154.jpg○タナ・パシール郡の避難民について
 1月25日に避難民6人が逮捕されたタナ・パシール郡の避難民キャンプを訪れました。
 現在、避難しているのは、マタン・バル(Matang Baru)村、東クアラ・クルト(Kuala Kerto Timur)村の住民です。
 避難民キャンプ入り口に、郡役場の救援ポストが開設されており、すべての援助物資はこのポストを通さなくてはなりません。もともと地震・津波直後、学生ボランティアが支援、遺体収容をおこなっていましたが、1月31日、郡長から解散命令が出されました。郡役場ポストが援助物資を外に運び出そうとしているのを学生が発見し、それを止めようとしたことが原因ではないかと考えられています。わたしたちも避難民と話しをしていたら、すぐに救援ポストから呼び出しがかかりました。
c0035102_2474737.jpg 避難民キャンプでは、とくに清潔な水が必要とされています。しかし、避難民は、なによりも早く村に戻りたいという希望をもっています。ただ家も、生計を立てるための舟も流され、資本もない状態のため、避難生活を送らざるを得ません。
 物資(下記)を運んだのち、元の村を訪れました。地元NGOの友人やわたしは、住民の足である小型乗合い自動車(スダコと呼ばれる)をチャーターして、物資を運んでいるのですが、避難民が10人くらい、一緒に来てくれました。彼らも、自分たちの村を見に行きたいのですが、歩くと3時間かかるそうです。
c0035102_2495731.jpg 290世帯が避難しているマタン・バル村では、残った家は31軒、それも半壊状態です。191世帯が避難している東クアラ・クルト村では、残ったのはムナサ(祈祷所)のみ、家はすべて破壊されました。ここにあった海兵隊詰所も同様です(写真)。ちなみにマタン・バル村でヤシの実をごちそうになりました。とにかく埃がひどく、ヤシの実ジュースは救いでした。避難民のことば「家は流されたけど、神がつくったものは流されない」
c0035102_2482261.jpg 家々の残骸を片付けたのも住民です。避難民キャンプへの帰り道、流された家財を拾いに来ていたおじいさんもスダコに乗りました。エビの養殖池で食器を見つけ、避難民キャンプに持ち帰るところでした(写真)。

運んだ物資
・キャンディ 12袋
・クラッカー 144袋
・ビスケット 72袋
・乳幼児用ミルク 63箱

合計 116万4600ルピア=1万3234円(1円=88ルピア)

○北アチェ県の避難民支援の問題
 昨日(5日)に訪問したチュッ・ムティア病院でも感じましたが、避難民に十分な物資が行き渡っているとは、とても考えられない状況です。各国からの援助物資が「第2の津波」のように押し寄せているという情報とは、あまりにもかけ離れています。
 2月5日の「アチェの状況」でもご報告しましたが、いくつかの地域で、すでに夜中に治安部隊が援助物資を保管している倉庫から、一部を運び出していることが判明しています(映像もあり)。
 スノドン郡にある避難民キャンプでは、赤十字国際委員会(ICRC)が、学生救援ポストを通じて、世帯ごとに4枚の毛布を供与しました。しかし避難民支援コーディネーターとなっているスノドン郡の軍分支部(Koramil)のズルキフリが、学生から毛布を「奪い」、避難民は結局世帯あたり2枚の毛布しか与えられませんでした。
 この避難民キャンプでは、元村長がズルキフリに平手打ちされ、蹴られる事件も起きています。1月28日15時から、ズルキフリが援助物資を配給しはじめました。マグリブ(日没の礼拝)になっても配給が終わらず、避難民たちは焦りはじめました。元村長が住民に対し「全員に行き渡るから、焦らずに待ちなさい」と言ったところ、ズルキフリに突然暴行されたのです。
 元村長は自尊心を傷つけられ、避難民たちも自分たちの村の指導者が辱められたことで憤りを感じています。
 さらに、避難民の強制帰還もおこなわれています(サムドラ郡プウク村、スノドン郡ムナサ・サゴ村)。半壊した家に戻され、約束では1~2週間供与されるはずだった生活保障もなく、仕方なく避難民キャンプに戻っても、もはや援助物資を配給されない状況です。
 現在、避難民を収容するリロケーション・センター(1つのバラックに12世帯、4×5mずつ)が建設されています。しかし海岸沿いに住み、漁をおこなっていた住民は、村から離れたリロケーション・センターに移転することを拒否しています。生計を立てる手段もなく、より貧しくなり、より援助に依存しなくてはならなくなるからです。リロケーション・センターを建設しても、その後、世帯ごとの家を建設するのであれば、援助のムダづかいだという批判も出ています。
 北アチェ県での軍事作戦は依然としてつづいており、住民たちは、地震・津波後も同じ恐怖を抱えて暮らしています。各国からの援助が、インドネシア軍にとって「稼ぎ時」となり、今後の軍事作戦に用いられる危険性はけっして小さくありません。汚職もしかりです。日本の援助がどのようにつかわれるか、かなりの監視が必要です。
 インドネシア政府は「緊急支援の段階は終了」という声明を出していますが、少なくとも北アチェ県における避難民支援の状況を見る限り、緊急支援自体はじまってもいないのではないか、とすら思えます。
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by NINDJA | 2005-02-07 02:52 | NINDJAの救援活動