2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

●活動報告(2005年2月9日)

○スヌドン郡の避難民キャンプ
 スヌドン(Seunuddon)郡にある3カ所の避難民キャンプを訪れました。東アチェ県境に近く、また幹線道路であるメダン=バンダ・アチェ道路から離れていることから、援助の手があまり届いていないのではないかという懸念があります。
 運ぶ物資については、友人たちとかなり議論しました。これまで訪問したキャンプでは、ほとんどの避難民がおかずなし、もしくはインスタントラーメンの生活です。どう考えても栄養のバランスが悪い。何とか「ナマモノ」を運びたいと思ったのですが、野菜は、そもそも自分たちの畑で取れていたものなので避難民の受けが悪い、魚は、大量に買い付けるためには予約が必要だし、少量もっていっても足りない、と却下されてしまいました。スノヌドン郡だけでも数千人が避難民になっている状況では、「ナマモノ」は難しいようです。
 けっきょく、乳幼児用の粉ミルクを運ぶことにしました。「あいさつ」代わりのものですし、ほかのものだと大人(とくに男性)に独占される可能性もありますが、乳幼児用の粉ミルクだったら大丈夫だろう、という判断です。それぞれの年齢にあわせて3種類、1カ村につき30箱×3種類=90箱の粉ミルクを運びました。

合計 6580ルピア×900箱=592万2000ルピア=6万7295円(1円=88ルピア)

○アルー・バロー(Alue Baroe)の避難民キャンプ
c0035102_359100.jpg 最初に訪問したのは、アルー・バロー村の避難民キャンプです。風通しの悪いテントではなく、木陰が人びとの休息の場になっています。輪ゴムをつなげて、縄跳びをしている子どもたちもいました。わたしたちも、そこで避難民と話し合いました。
 このキャンプには、3カ村の住民が避難しています。
・トゥピン・クユン(Teuping Kuyuen)村 201世帯831人(死者49人)
・東ウレェ・ルブック(Ulee Rubek Timur)村 227世帯918人(死者47人)
・マタン・ラダ(Matang Lada)村 33世帯180人(死者1人)
 予想と異なり、ここにはかなり援助が入っており、カンダ・トロントのイスラーム財団が診療所を開設しているほか、幸福正義党(PKS)や学生の救援ポストがありました。ただし避難民は、「外国人の医者は扇風機がないと働けない」と、少し批判もしていましたが。
 避難民たちの生計を立てる手段は、男性の場合、漁や養殖、女性の場合、貝拾いや塩づくりです。
 この避難民キャンプでの問題は、主要には以下の2点です。
<リロケーションの問題>
c0035102_355590.jpg 元の村から8kmはなれたアルー・チャプリット(Alue Caplit)村への移転が決まり、すでにリロケーション・センターが建設されています。この地域は、津波が押し寄せた最後の地点で、避難民たちは土地が「毒されている」ことを心配しています。
 また生計を立てるため、つまり漁に出るため、元の村に戻った場合、いまは道路に近いため2000ルピアで済むのが、往復1万ルピアもかかることになります。この交通費の捻出は、避難民にとってはかなりの負担です。
 ひとつのバラックに20世帯が入ることになるのですが、約束では1世帯あたり4×13メートルのスペースを与えられることになっています。しかしシグリ県で、すでに建設されたバラックでは、3.5×11.5メートルだということで、避難民はその分、汚職に消えたと確信していました。「なんといっても、インドネシアだから」「上で支配しているのは、アチェ人ではないから」とは避難民のことば。
<援助の問題>
 避難民たちは、スヌドン郡役場まで物資を取りに行かなくてはなりません。
 すでに帰還した人びとは5日に1回、5世帯ごとにグループをつくって物資を取りに行きます。5世帯そろわないと、物資を受けることはできませんし、往路は歩くにしても、復路はベチャ(2人乗り+右手にオートバイ)で運ばなくてはならず、交通費に5000ルピアかかります。
 まだキャンプ生活している場合は、2日に1回、15世帯ごとにグループをつくって物資を取りに行きます。15世帯ごとに塩干魚2kg、卵30~60個と、その量はかなり少ないようです。避難生活をして、鮮魚を食べたのは2回だけ。漁民である彼らにとって、塩干魚を食べるのはつらいということで、鮮魚を運べればいいのに、とつくづく感じました。

○ブラン・グルンパン(Blang Glumpang)の避難民キャンプ
 つぎにスヌドン郡でもっとも遠いブラン・グルンパンを訪れました。道はガタガタ、ロスマウェの町から2時間以上かかります。
 このキャンプに避難しているのは4カ村。
・ムナサ・サゴ(Meunasah Sago)村 209世帯(死者117人)
・ロッ・プウク(Lhok Puuk)村 少数(死者127人)
・マタン・プントン(Matang Puntong)村 110世帯414人(死者100人)、107世帯はすでに帰還
・マタン・パニャン(Matang Panyang)村 17世帯83人(バンダ・アチェにいた17人が死亡)、189世帯はすでに帰還
c0035102_365556.jpg 避難民たちと話をはじめたとたん、隣にある海兵隊詰所から兵士がやってきて、わたしの横に座りました。さらに郡の救援ポストからも人が来て、何やかにやと嘴を突っ込んでくる。避難民のおじさんの一人が、わたしを見て、「気にするな」とつぶやいて、首を振りましたが、もはや突っ込んだ話はできません。
 コメや水、インスタントラーメン、粉ミルク、灯油、子どもの学用品(制服、靴、カバン、ノートその他)が不足しているということ、舟のほとんどが流されたことなど、一般的なことを聞いただけでした。
 ちなみに、海兵隊の兵士はランプン州(スマトラ島南部)出身。海沿いの詰所にいて、3人の同僚が死亡したそうです。必要もないと思われるのに、わざわざ手にもっているピストルは、一度津波で流され、1週間前に拾ったもの。つかいものにならないのではないかと思っていましたが、分解して掃除したようです。

○タンジュン・ピナン(Tanjung Pinang)の避難民キャンプ
 最後のタンジュン・ピナンを訪問したときは、すでにマグリブ(日没の礼拝)の時間でした。人びとは、近くのモスクへと祈祷へ出かけます。結局、立ち話をし、粉ミルクを届けるにとどまりました。
 このキャンプには3カ村が避難しています。
・マタン・ラダ(Matang Lada)村 アルー・バロー避難民キャンプと分かれて避難
・ロッ・プウク(Lhok Puuk)村 286世帯1425人、ブラン・グルンパン避難民キャンプと分かれて避難
・西ウレェ・ルベック村 276世帯1416人(死者46人、津波による孤児7人)

 ロスマウェまでの帰途は、もはや真っ暗で、車は走っていません。以前であれば、とても外出できませんでしたが、少なくとも地震・津波後、幹線道路沿いでは「平和」を実感することができます(内陸部に住む人びとは、状況に変化がないと言っていますが)。
[PR]
by NINDJA | 2005-02-10 03:09 | NINDJAの救援活動