2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

●津波災害後のGAMとアチェの未来

 いくつかのインドネシア国内の団体は、人道援助をおこなうためボランティアをバンダ・アチェに派遣した。
 このなかに2つのイスラーム組織、インドネシア・ムジャヒディン評議会(MMI)とイスラーム防衛戦線(FPI)があった。彼らは空軍基地に活動本部をおき、遺体の埋葬や援助物資の配給をおこなった。しかし自由アチェ運動(GAM)は、MMIとFPIの存在に反発した。GAMの亡命指導者は声明を発表、MMIとFPIの目的がイスラーム国家の建設にあり、これはGAMが目指す闘いとは異なることを訴えた。
 アチェの学生組織連合体であるアチェ住民投票情報センター(SIRA)も、GAMと同じような見解をもっている。SIRAはその声明のなかで、「MMIとFPIの存在は、アチェの紛争を宗教紛争に導きかねない」と警告した。
 MMIとFPIに対する国軍の反応は、矛盾するシグナルを送っている。国軍広報官ジャザイリ・ナクロウィ大佐は、MMIとFPIのボランティア活動を評価し、戦闘的な傾向があるからといって差別するべきでないと発言した。しかし、空軍はMMIのボランティア総勢206人のうち19人を追放した。MMIメンバーのひとりによると、これは国軍が外国の圧力に屈したからだという。MMIはGAMにつながっているのではないかとう噂も流れたが、現実はGAMとMMIはイデオロギー的に相容れないのだ。

<GAMとイスラーム>
 GAMは、独立イスラーム国家を標榜しているのではないかという誤った一般認識がある。たしかに、アチェの自由を勝ち取る闘いは、まずイスラーム国家への希求からはじまった。歴史的に強固な独立心をもったアチェ人は19世紀、オランダの植民地支配に最後まで抵抗した地域だった。1950年代、インドネシアがアチェに州の地位を与えなかったことからイスラーム国家樹立のためのダルル・イスラーム反乱に参戦した。
 アチェの反乱は、ジャカルタがアチェに特別州地位を与えたことで終焉した。しかし1976年、アチェ・スマトラ民族解放戦線という新しい運動が起こった。これは「ジャワの経済・政治支配」に失望したアチェ人の独立運動で、自由アチェ運動(GAM)と呼ばれた。ハサン・ティロに率いられたGAMは、イスラーム・イデオロギーというよりアチェ民族主義の色合いが濃い。GAMの目的はイスラーム国家ではなく、非宗教的な民族主義国家なのだ。
 ハサン・ティロは19世紀、オランダに抵抗したイスラーム指導者の教えを受け継いでいるが、彼はイデオロギー的にはイスラーム主義者というよりは、より社会主義者である。ハサン・ティロは、西側に商業利害をもつ外国で教育を受けたアチェ人のグループとともに、GAMを結成した。GAMのウェブサイトでは、ハサン・ティロは、投資金融業、航空サービス、石油、天然ガス、船舶の分野で活躍するニューヨークのドラル・インターナショナル(株)の社長として紹介されている。
 1998年のスハルト失脚後のインドネシア政府のアチェ分離運動を解決する方針は、アチェが単一インドネシア共和国の一部としてとどまる限りは、できるだけアチェ人が望むものを与えようというものだった。2001年、石油とガス収入の85%をアチェに還元するという特別自治パッケージが実施された。この特別自治でさらに重要なことは、イスラム法(シャリア)が適用されるということだった。これが、アチェ人の心をつかみ、GAMを周縁化させようという戦略だった。GAMは特別自治を拒否し、2002年12月に発効した休戦は3カ月後に崩壊した。そして政府は、GAMにテロリスト集団というレッテルを貼った。

<強硬派の立場>
 イスラーム強硬派の3団体、、インドネシア・ムジャヒディン評議会(MMI)、イスラーム防衛戦線(FPI)、ラスカル・ジハード(聖戦部隊)は、インドネシアのイスラーム社会では広く受け入れられていない。たとええば、イスラム政党である幸福正義党はアチェで活発に救援・人道活動を展開しているが、彼らは戦闘的なFPIやラスカル・ジハードに違和感をもっている。

<メッカのベランダ>
 アチェは、イスラームがインドネシアで最初に上陸した地で、ここから東南アジアにイスラームが広まっていった。アチェがセランビ・メッカ(メッカのベランダ)と呼ばれる所以はここにある。
 アチェとイスラームの関係はつぎの3段階に分析できる。
1. 1524年~1873年:独立した豊かなイスラーム君主国家でヨーロッパと独自の外交関係があった。
2. オランダ植民地下のアチェ:オランダの東インド植民地化計画に、もっとも強く抵抗した。
3. 1945年~1959年:インドネシアの独立戦争でのアチェの役割とそれにつづくダルル・イスラーム運動。
 上記3段階でアチェのイスラム・アイデンティティーが形成された。
 1976年のGAMの登場により、独立を求めるアチェの政治エリートたちのレベルで、アチェの非宗教的民族主義への移行が認められる。しかし、大衆レベルでは、アチェ人のイスラーム・アイデンティティー傾向は強く残っている。
 これは、GAMが対処しなければならない現実だ。また、政府が特別自治のなかでイスラーム法の適用を認めたのもここにある。イスラーム法の適用は、非宗教的国家イデオロギー、パンチャシラを掲げるジャカルタ政府にとっては大幅な譲歩だった。
 GAM、インドネシア政府双方が、分離主義紛争があまりにも長く続いているとみなすならば、津波災害後はこれに終止符を打つ絶好のチャンスである。
 しかし恒久和平への道は容易ではない。両者は、もっとも基本的な事柄に合意しなければならない。それは、将来のアチェ像について合意できるかということだ。
 GAMの最終目標は、つねに独立国家アチェであり、これはジャカルタが決して受け入れないことだ。ヘルシンキの協議で、10年以内に住民投票をおこなうかわりに独立の要求は一時保留するというGAMの提案をジャカルタは拒絶した。GAMは津波災害でかなり弱体化したが、独立国家アチェの夢からは程遠い最終解決策を受け入れるのだろうか?(The Straits Times, 05/02/12)
[PR]
by NINDJA | 2005-02-12 12:00 | 和平への動き