2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●活動報告(2月19日)

○サウォッ製作開始(ブラン・ニボン村)

c0035102_5311857.jpg グドンに避難しているブラン・ニボン村の被災者たちが、いよいよサウォッの製作をはじめました。網の目の細かいサウォッ・シランは、ミシンをつかって縫うため、村ではハサンさんしかつくれません。網の目の大きなサウォッ・サベェは、重要な箇所をイドゥリスさん、あとは女性も含めて、周囲の人びとが手伝っています(写真は娘と姉を津波で失った男性)。少しでも早く仕上がるよう、夜まで作業しているそうです。
 どのキャンプでも、避難民たちは、元の生業に戻るための支援がないことを嘆いています。ある避難民は「半日は家の残骸の片付け、半日は養殖池の片づけをしているが、もう疲れてしまった。将来の収入につながらないから」と言っていました。たしかに家の残骸や破壊された養殖池をいくら片付けても、資本がないため、家を建てることも、養殖池のための稚エビなどを購入することもできません。日本のNGOを含め、多くの海外の援助団体が、バンダ・アチェでこの瓦礫撤去に対して賃金を払うプロジェクトをおこなっていますが、それだけでは被災者に将来への希望を少しでも取り戻すことにはつながらなそうです。
 ところで、ブラン・ニボン村ではサウォッを42個(+日本に持ち帰るため1個)製作します。すべて製作し終わってから配られるのかどうか、気になっていました。イドゥリスさんに聞くと、1個できたら1人に渡していくとのこと。それでも、子どもが多い、とくに貧しい、など優先順位の高い人びとから渡すため、問題は起きないとのことでした。
 数日したら、プカット・ソロン開き(?)の儀式です。ブラン・ニボン村については、これで一段落です。あとは、プカット・ソロン支援が、実際に被災者の役に立ったのかどうか、2~3カ月後に、友人たちがフォローアップしてくれることになっています。

 聞き取り2日目の今日は、グドン周辺に避難している村をまわりました(お伝えしたように、わたしは同行できないので、ブラン・ニボン村のテントでサウォッ製作を見学したり、子どもに遊ばれたりしていました)。以下、そのご報告です。

○ムチャッ(Meucat)村カンプン・ラマ(Kampung Lama)集落の状況

・70世帯289人(死者なし)
・14軒が完全倒壊、ほかは重度の破壊
・元の村での男性の生業は、漁業(漁船は所有していない)、養殖池(移住者の養殖池の見張りなど)
・元の村での女性の生業は、養殖池(移住者の養殖池の掃除、半日7000ルピアの収入)、農業労働者(他人の田んぼで必要な作業があるときのみ賃労働、半日7000ルピアの収入)、お菓子づくり(グドンに売りに行く)
・再定住予定地はブリンギン村(元の村に家を建てたいが、飢えるよりはマシなので移転する予定)
・マンディ(水浴)用の水が不足、井戸があるが汚い、川か近くの村の井戸を借りる
c0035102_5321636.jpg・飲料水用タンクは、プウク村65世帯と合わせて1つしかない(グドンの避難民キャンプはすべて国境なき医師団が飲料水を支援→写真)
・調理用コンロが不足(10~15世帯が暮らすテントに2つだけ)
・プカット・ソロンはできない
<今後の支援予定>
聞き取りしたとき、女性たちは、田植え(賃労働)から帰ってきたところだった。避難民自身、どんな支援が必要か、自分たちが何をしたいか、思いつかない状況である。再定住、もしくは元の村への帰還後、たとえばニワトリやアヒルを飼うなどの可能性があるかもしれないが、現時点では保留にする。

○プウク(Puuk)村の状況

・65世帯230人(死者10人、津波による寡婦1人)
・68世帯、家が一部でも残っているとの理由で、元の村に戻された。その際、郡単位の軍分支部(Koramil)、警察(Polsek)、郡長から成るMuspikaが、村に戻らなければ、重機で家の残骸を撤去すると脅迫された。しかし、14日間しか食糧を与えられず、現在、夜はキャンプに戻ってきている。
・元の村での男性の生業は、漁船をつかった漁
・元の村での女性の生業は、畑(イモ、スイカ、キュウリ)、農業労働者
・再定住予定地はマタン・ウリム村、当初ブリンギン村と指定されていたが拒否、マタン・ウリム村も水が悪いため拒否
・援助物資のうち、ストックのあるもの、それほど重要ではないものは、避難民の合意を得て、学費、子どものおこづかいのために売却(これは、ほとんどのキャンプで起きているが、私腹を肥やさない限り、当然のことだと思う)
・津波発生時に漁に出ていて、助かった漁船を利用して、すでに多くの人びとが働きはじめたが、漁船のモーターで腕を切断する事故が起きたため、「プシジュッ(peusijuek)」というお祓いをしなくてはならない。しかし、資金がなく、プシジュッをできないでいるため、多くの人びとは漁に出ることを恐れている。
・河口に設置するか、漁船で用いるための網が必要
・プカット・ソロン(サウォッ・サベェ)を開始した人も
<今後の支援予定>
網については少数のみのため(河口にたくさん網を張ると、魚がとれない人が出てくる)、できればプカット・ソロンなど別の支援方法を検討する。もう少し調査が必要。

○サワン(Sawang)村の状況

・326世帯1155人(死者185人、津波による寡婦8人)
・元の村での男性の生業は、漁船をつかった漁(20%)、プカット・ソロン(80%)
・元の村での女性の生業は、ゴザ編み(80%)、養殖池での賃労働
・再定住予定地はマタン・ウリム村、当初ブリンギン村と指定されていたが拒否
・2週間、卵やミネラル・ウォーターの支援なし
・「USA」と書かれたコメが配られたが、1月1人あたり12kgで不足、しかし援助があると判断した地方政府は援助を停止
・郡役場にミルクが積み上げられているのを目撃したが、キャンプに届いたことがない
<今後の支援予定>
女性たちのゴザ編みの支援をしたいが、津波で木が流され、原料を購入しなくてはならないという。1枚1万ルピア程度で売るとして、50万ルピアの資本を投入して、純益が20万ルピアにしかならないという。そのため、当面、プカット・ソロンの可能性を探ることにし、プカット・ソロン支援を希望する人をリストアップしてもらうことに。

○マタン・ウリム(Matang Ulim)村の状況

・18世帯77人、全部で115世帯415人だが残りは元の村に戻った
・プカット・ソロンについて、前の世代はやっていたが、いまの世代はない
・元の村での女性の生業は、ゴザ編み(原料の問題)
・サワン村の避難民によると、マタン・ウリム村は貧しい村
<今後の支援予定>
ほとんどが元の村に戻り、避難民キャンプでは男性3人にしか会うことができなかったため保留。

○クタ・グルンパン(Kuta Glumpang)村の状況

c0035102_5335377.jpg・172世帯699人(死者18人、ほとんど子ども)
・90%の家が破壊、70%は完全倒壊
・元の村での男性の生業は、漁船をつかった漁かプカット・ソロン(70%)、養殖池(30%)、漁船は34艘のうち3艘のみ残っている
・漁船について、1月末ごろ社会相が訪れたとき、県知事から1週間以内に支援させると発言したが、現在まで進展なし
・ブラン・ニボン村の学校に通っており、かなり距離があるため、キャンプ内に学校テントが欲しい
<今後の支援予定>
イドゥリスさんから話を聞いたクタ・グルンパン村のザイヌディンさんが、すでにプカット・ソロン支援希望者30人をリストアップしてあった。プカット・ソロンをできない人びとが投網用の網(ジャラ)を希望しているため、こちらでフォームを作成し、再度、避難民に「サウォッ・サベェ」「サウォッ・シラン」「ジャラ」の3つの選択肢から選んでもらう。

○その他

 2月18日に報告したとおり、チュッ・ムティア病院に避難しているジャンボ・メスジッド村では、すでにプカット・ソロン希望者32人がリストアップされている。ただしサウォッを製作できる人がいないため、外注する必要がある。近日中に、避難民代表と細かい打ち合わせをし、ブラン・ニボン村につづいて、プログラムを実施する段取りにする。
 同じくチュッ・ムティア病院に避難しているクアラ・ムラクサ村については、一両日中にプカット・ソロン希望者のリストが完成する予定。
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by NINDJA | 2005-02-20 05:35 | NINDJAの救援活動