2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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カテゴリ:NINDJAの救援活動( 73 )

○東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村の学校建設、完成間近
c0035102_2581833.jpg 仮設学校は完成間近です。壁のほとんどに板が張られ、屋根を残すのみとなりました。来週には完成予定です。
 ところでJRSが運び入れたテント(3月9日の活動報告を参照)の顛末です。JRSは村長に対し、テントを保健施設として使用するよう申し入れましたようです。テントを設置したあと、JRSが医者もしくは看護士を、1週間に2回派遣するとのこと。しかし、23日になっても、テントは放置されたままでした。
 なお被災者の家については、村長によれば、世銀が建設資金を出すようです。埋め立ては、ドイツのGTZからの支援でおこなわれます。

○西バクティア郡のバライ・プンガジアン
 ムナサ・ハグ村とブランデ・パヤ村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習場)建設もはじまりました。4日ほどで完成する予定です。(I)
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by NINDJA | 2006-03-23 23:50 | NINDJAの救援活動
○マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン建設
c0035102_643363.jpg 先日ゴトン・ロヨン(相互扶助)によって、着工がおこなわれたスヌドン郡マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習場)建設の進行具合をたしかめに行きました。現場に着くと2人の大工さんが作業にあたっていました。トタンの屋根も取り付けられ、プンガジアンはほぼ完成に近いかたちでした。来週の水曜日には完成予定ということです。
 ところで、NINDJAの支援とは直接関係ありませんが、Jariのスタッフがマタン・ラダ村で聞いた家の支援の問題についてちょっと触れておこうと思います。マタン・ラダ村の隣村のバンタヤン村の住民は、津波で村が破壊されたためにマタン・ラダ村の土地に移住することになり、NGOのCordaidが家の支援をおこなうことになりました。Cordaidは建設会社と契約を結び、6m×4mの家を建てるための建築代金として1軒につき1200万ルピアを支払うことになりました。しかし、最終的に大工さんたちのもとに渡ったのは、1軒につき450万~600万ルピアだけで、これではとても足りず、建設作業がずっと滞っていたそうです。どうやら複数のブローカーが関与しているとのことです。
 先日は大手国際NGOの支援金の不正が地元でも大きく取り立たされましたが、津波後のアチェではこのような援助にまつわる不正行為がいたるレベルのところで聞かれます。Jariのスタッフも、援助によって人びとのモラルが破壊されてしまっていると嘆いています。

○西バクティア郡のバライ・プンガジアン建設
 マタン・ラダ村をあとにして、西バクティア郡ムナサ・ハグ村とブランデ・パヤ村のバライ・プンガジアン建設のため、木材と屋根につかう材料の買い付けです。ブランデ・パヤ村のプンガジアンについては、つかわれていない木材があるというので、建設資材の一部とすることにしました。
 その後、すぐ近くに紛争中よく銃撃戦が行われていたという橋があるというので、ちょっと足を伸ばしました。橋は、一面養殖池が広がる場所にある川の間をまたいで架かっていました。橋は木造で、車は通れずバイクがやっと2台通れるくらいの広さで、歩くと大きく揺れる代物です。橋の上からあたり一面を眺めると、本当にのどかな風景で、静かな場所でした。ついちょっと前までここで戦いがおこなわれていたということがとても信じられない感じがしました。でも、その橋の脇にあった掘っ立て小屋にはまだ銃弾の後が生々しく残っていました。GAMだけでなく、養殖池の番をしていた普通の住民も軍事作戦の犠牲になったといいます。
 津波によってインドネシアとGAMのあいだで和平合意が結ばれ、軍事作戦は終わりましたが、住民たちの記憶にはいまでも鮮明に紛争の記憶が残っています。30年近くも続いた紛争を終結にいたらせたのが数十万人の犠牲を出した自然災害であったという事実は、アチェの人たちには、どのような思いで受け止められているのでしょうか。津波後はじめてアチェを訪れたわたしには、その思いをおもんばかることしかできませんが、せめていまの平和がこれからもずっと続いてくれることを願わずにはいられません。(瑛)
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by NINDJA | 2006-03-18 22:50 | NINDJAの救援活動
○東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村の仮設学校建設はじまる
c0035102_2493791.jpg 東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村の仮設学校建設がはじまりました。8人の大工さんが建設にたずさわっています。ちなみに賃金は700万ルピア。当初の約束にしたがって、本日200万ルピア、以降2回にわたって支払います。
 今日は、ドイツのGTZもクアラ村に来ていました。村長さんによると、被災者の移転地(現在の位置から800mほど、つまり海から1kmほど内陸部で、現在は養殖池となっている)の埋め立てをするため、事前調査をおこなっているそうです。
 また、恒久的な学校を建設するNGOも、建設予定地の見学に来ていましたが、いつ建設がはじまるのか確実ではないようです。(I)
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by NINDJA | 2006-03-16 23:40 | NINDJAの救援活動
○マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン建設
 今日はスヌドン郡マタン・ラダ村で、バライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習をする場)の建設作業の着工がおこなわれました。ふつうは大工さんが建設しますが、着工のときだけは村の男性たちが集まって、ゴトン・ロヨン(相互扶助)をおこないます。わたしたちが現場に着くと、すでに建築資材が運び込まれていて、総勢15名ほどの男性たちが板を削ったり、合板を組み立てたりしている姿がありました。
c0035102_21214285.jpg 男性たちのなかで本当の大工さんは3人だけですが(本日のゴトン・ロヨン後の作業は、彼らによっておこなわれます)、テキパキとみんなに指示を出し、みずからも率先して板を削ったりしていた1人の中年男性の姿が印象的でした。
 彼は、トゥンク(イスラーム指導者)の息子で、イスラームの正装である帽子を頭に被り、腰にサルン巻きながら作業にあたっています。彼の幼い息子が父親を呼んで泣くとあやすために家のなかに入り、数分後にまた出てきては作業を再開することを繰り返していました。しかし息子のほうは泣き止まず、結局子どもを抱きかかえながらの作業となりました。その姿はなんとも微笑ましい光景でした。
 彼に限らず、アチェの父親たちは、よく幼い子どもの面倒をみます。また、男の子は小さいときから年上の男の人たちの行動をよく観察しています。まさに父親の背中を見せて教育する、といった感じです。今日は観察するだけだった子どもたちも、きっと数年後には作業を手伝うようになるのでしょう。
c0035102_21205055.jpg さて、ひとしきり作業が終わったところで、軽食とコーヒーをみんなでいただきました。「クア・トゥヘェ」と呼ばれる、もち米とバナナをココナッツと一緒に甘く煮たこの食べ物は、アチェでゴトン・ロヨンの時に食べる物だそうです(ちなみに、後日シンパン・ウリム郡クアラ村の人に「クア・トゥへェとアッサムスンティーを食べたらアチェ語が上手になるよ」と言われたほど、アチェで親しまれている食べ物のようです)。身体を動かしたあと、大勢で食べる甘い食べ物はまた格別なのでしょう。わたしも美味しくてついお替りをしてしまいました。
 プンガジアンは約1週間で建設完了するとのことです。(瑛)
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by NINDJA | 2006-03-10 21:15 | NINDJAの救援活動
○ブラン・ニボン村でTV局の取材を受ける
 メトロTVというインドネシアのテレビ局が、漁民への支援について取材したいということで、朝早くからサムドゥラ郡ブラン・ニボン村に行きました。メトロTVの人は、NINDJAが供与したサウォッについて、住民から話を聞いたようです。「資本もいらない(漁船と違い燃料費などを払わなくて済む)、貧困層に届く、被災者が生計を立てる手段を必要としている初期の段階で支援をした」などとお褒めの言葉に預かりました。
c0035102_1224516.jpg ブラン・ニボン村のイドリスさんが海から上がってきたところを、わたしたちが待ち受け、獲ってきたサクラエビを食べているところや、浜辺で村の人びとと一緒に話しているところを、メトロTVが撮影していきました。3月末までには完成するらしいので、とても楽しみです。(奈)

○クアラ・シンパン・ウリムの小学校騒動再び
 ブラン・ニボン村からの帰り道、クアラ村の村長から電話が入りました。4日に話し合いをしたことが、危うく無に帰すことになりそうな事態が起こっていたのです。村長によると、話し合いで別の用途にまわすことになっていたはずのJRSテントが運び込まれたとのこと。しかも、JRSは「NINDJAの支援はまだあと1カ月かかる」と説明したらしいのです。
c0035102_123898.jpg NINDJAは1週間以内に建築資材の物価調査、購入、搬送をする予定でいましたが、村の人たちを安心させるために、急遽その日のうちに資材の一部を買い付け、村に運びました。村の人たちは「ほかの支援がなくても、まずは学校を」と言っていたこともあり、資材が運ばれて、ほっとしたようでした。いっぽう、JRSのテントは完全に野ざらしになっていました。
 それにしても、なぜこのようなことが起こったのでしょうか。原因はいまだにわかっていませんが、もしかするとJRSのスタッフが、すでに決まっていた支援がペンディングになったということを本部に伝えることができず、村の人に嘘をついて、無理やり既成事実をつくろうとしたのかもしれません。支援の重複は誰もがなるべく防ぎたいことですが、ある程度は自然に起こってしまうのも仕方がないことでしょう。とすると、それが起こってしまったときに、どう対応するかが問題ですが、少なくとも被支援者の利益を考えないでドナー側の都合を優先するというのは絶対にあってはならないことだと思います。(瑛)
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by NINDJA | 2006-03-10 00:59 | NINDJAの救援活動
○クアラ・シンパン・ウリムの小学校建設騒動
 2月27日に訪れ、仮設の小学校建設をすることになった東アチェ県シンパン.ウリム郡クアラ村で、かつてからここで巡回医療などを行っていたNGOのJRSが、テントの学校を支援する計画があることが判明。急遽3月4日にJRSとNINDJAで話し合いをもつことになりました。
 場所はクアラ村から数km離れたところに建つ仮設住宅にある村長の部屋。出席者は、クアラ村から村長と住民2名、JRSから1名、Puspa IndahというNGOから1名、そしてNINDJAと協力関係にあるJari Acehのスタッフ1名とNINDJAボランティアの学生1名で、日本人以外はすべて男性です(Jari Acehスタッフは、「NINDJAは普段は女性たちの支援をしているが今日の会議は男性だけだ」と冗談を言っていました)。JRSとPuspa Indahの人はアチェ人ではないので、会議はインドネシア語でおこなわれました。
 ちなみに、このPuspa Indahのスタッフは、国軍地方司令部で寝泊りしているため、クアラ村の住民たちは、その背景について疑念を抱いているようです。
 Jari Acehのスタッフは、NINDJAが決して大きな団体ではなく、日本のごくふつうの市民から寄せられたカンパで、アチェで津波被災者支援をおこなっていることを説明。それでも、クアラ村の人たちが小学校を必要としているのならぜひ支援したいが、JRSがすでに準備しているテントはどうなるのか、テントがもし別の用途でつかわれ得るのであれば、NINDJAは支援を継続したいと伝えました。
 村の住民も、紛争時に小学校が燃やされ、テントで勉強し、子どもたちが暑がっていた「トラウマ」があることから、木造の学校建設を望んでいました。さらに、以前、JRSが仮設住宅でつかわれていた木材を村に運び、学校を建設すると約束したにもかかわらず、それが実現しなかったという「苦い経験」もありました。
 JRSのスタッフもこれに納得し、村の人たちが希望している木造の学校建設をNINDJAがおこない、JRSのテントはひとまずペンディングということで話がまとまりました。話し合いは終始和やかな雰囲気のうちにおこなわれ、最後にはみんなで握手を交わしました。

○西バクティア郡にて女性支援のための予備調査
c0035102_1323963.jpg その後、西バクティア郡の4つの村で、女性たちの生計支援をおこなうためのニーズ調査に行きました。事前にそれぞれの村に連絡し、ムナサ(村の集会所、祈祷所)に女性たちに集まってもらい、そこで会合をおこないます。会合といってもけっして堅苦しいものではなく、途中の出入りは自由。わたしたちがムナサに着くと、徐々に女性たちが集まってきました。
 ある程度人数が集まったところで、アチェ人男性スタッフが挨拶し、今日の話し合いの目的をアチェ語で説明。あとは名司会(?)のもと、話し合いは対話形式で進められ、時には笑いも起こり、たいへん自由な雰囲気のなか、おこなわれました。
c0035102_1554825.jpg 集まった女性たちは、小さな子どもを連れた若いお母さんから、お年を召した女性までさまざまで、言いたいことがある人が発言し、周りがそれに頷いたり、反応したりしていました(もちろん、会合に参加したすべての女性が言いたいことを発言できたかどうかはわかりませんが、少なくとも女性たちの表情を見る限りでは、反応はとても良い感じでした)。普段は話し合いの中心にいることが多い男性たちもこのときばかりは、隅のほうで大人しく座っているだけでした。ここで得た意見をもとに、今後具体的な支援の方法を考えていきます。

おまけ:村のトイレ事情。ロッ・ウンチン村の女性たちから、ムナサにトイレをつくってほしいという要望がありました。アチェの村では、ムナサに公共のトイレがありますが、ロッ・ウンチンのムナサの敷地には、小さく仕切られたスペースがあるだけです。ほかの村のムナサにあるトイレも、ふつうは水場と小さく区切られた空間があるだけですが(通常ドアもなく、仕切り自体が背が低いことも多く、ちょっとした角度からはなかが見えてしまうのではないかと心配になるような開放的なもの。ベニヤ板が数枚敷かれており、下に流れていくようになっている。便器があることはまれ)、ロッ・ウンチンの場合はとくに地面の水はけが悪く、衛生的なトイレが欲しいとのことでした。ちなみに村の各家にあるトイレも、ムナサのトイレと同様便器がないことがほとんどですが、トイレは小に限り、大をするときは森や茂みに隠れてするそうです。もし、海など茂みがない場合は、早朝薄暗いときに顔だけ布で覆って用を足し、周りは見ないようにするとのことです。(瑛)
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by NINDJA | 2006-03-05 00:52 | NINDJAの救援活動
○クアラ・シンパン・ウリムへ
 2月27日、東アチェ県で唯一津波に被災したシンパン・ウリム郡クアラ村を訪問しました。以前から支援できれば、と思いながらも、北アチェ県での支援が手一杯で訪れることができなかった村です。
 河口にある村は、自由アチェ運動(GAM)メンバーが海外(マレーシアやタイ)に逃亡する際の基地になっているとして、これまでもっとも軍事作戦の激しかった地域のひとつです。本来226世帯ありましたが、軍事作戦を恐れて村を離れる人が多く、津波時には153世帯になっていました。うち46人が津波で死亡、海岸沿いにある家々はすべて流されました。
c0035102_7234961.jpg GAM拠点と考えられた村は、しかし支援を受けることができませんでした。村のモスク(イスラーム寺院)修復のために、アチェ・ニアス復興庁(BRR)から1985万ルピア出ましたが、家はすべて被災者が自力で掘っ立て小屋を建てています。
 この家が現在問題になっています。地方政府は、海から9km離れたところに、住民を移住させようとして、すでに土地の買収をおこなったそうです。しかし、多くが漁民である村の人びとは、生計を立てる手段を失う、仮に川から海に出る場合は燃料費がかかるとして、地方政府の計画を拒否しています。
 けっきょく村の人びとは2月10日、村から少し内陸に入った土地10haを1haあたり3000ルピアで購入することで、土地の所有者と合意を結びました。地方政府はこの資金を出さないと言っているため、被災者が自腹を切らなくてはなりません。 この村では、仮設学校を建設してほしいと依頼を受けました。村の小学校は津波で破壊され、現在ほとんどの子どもたちが学校に通っていません。「宮殿を建てようと思わなくていい。掘っ立て小屋でもいい。子どもたちが笑える場所がほしい」これが住民の願いでした。
 これまで、ほとんど支援が入っていないこと、3000万ルピア(35万円)程度で建設できそうなことから、仮設学校を建設することになりました。なんとか3月中には完成できればと考えています。

○ビザ更新
 3月2日、3日はバンダ・アチェに行きました。アチェ・ニアス復興庁(BRR)でビザ更新するためです。実は到着時発給ビザで入国していたため、本来なら更新できなかったらしいのですが、ちゃっかり1カ月更新してもらいました。
 アチェで支援したい方のための情報。BRRによれば、
①BRRに登録している現地の機関・NGOがBRRに招聘したい旨連絡する
②受け入れが許可された場合、BRRが日本のインドネシア大使館に連絡する
③ビザ申請者は日本のインドネシア大使館で訪問ビザ(Visa Kunjungan)をとる
というのが正式な手続きのようです。この手続きも、しばしば変更になります。少なくとも、昨年までは到着時発給ビザで、なんら問題はありませんでした(ビザ更新も可能だったそうです)。

○資金のムダづかい
 バンダ・アチェでは、久しぶりに多くの友人と会いました。なかでもIOM(国際移住機関)でコンサルをつとめるアチェ人人権活動家の友人の話が興味深かったので紹介させてください。
 IOMは津波被災者支援だけでなく、和平合意後のGAM再統合プログラムなども進めています(日本政府からも資金提供)。わたしの友人は、GAM再統合、紛争犠牲者支援などに関わっています。
 彼いわく、国連機関の資金のムダづかいが、かなり深刻だとか。国連の指標では、アチェの危険度は3、アフガニスタンと同じだそうです。そのため、スタッフは公共交通機関をつかってはならない、かならず車+運転手をつけなくてはならない、移動するときは2台以上で隊列を組まなくてはならない、2カ月に1度は「危険地」アチェから外に出なくてはならない、危険地赴任手当てが出る…などなど、とにかく安全対策費用が多額になるようです。
 さらにUNISEFは、緊急段階が終了した昨年末、支援国からの資金が莫大にあまってしまい、予算消化のために車を大量に購入したとか。友人は「UNISEFがどうやって支援を集めた? 『アチェの子どもたちは飢えている』とか、美しい言葉を並べたポスターでじゃないか」と怒り心頭。
 バンダ・アチェのウレ・レで「OXFAMはうそつき」という横断幕が掲げられたこともあるらしく(OXFAMはこの対応で1週間、会議をしつづけたとか)、友人は「(団体の名前)、約束した○○はどうした?」といった横断幕やビラをつくりたいと考えているようです。
c0035102_7251641.jpg バンダ・アチェ中心部はほとんど津波以前と変わりませんが、インド洋沿いにロッ・ンガ、ルプンのほうへ向かうと、いまだに被災者はテント住まいしている状況です。史上最大規模の援助がアチェに流れているはずなのに、本当に何につかわれているのでしょうか。
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by NINDJA | 2006-03-04 07:19 | NINDJAの救援活動
○巨大井戸の贈呈式
 25日、西バクティア郡ロッ・ウンチン村の巨大井戸の贈呈式がありました。住民たちからの要請です。朝から、男性たちは、ヤギ3頭を解体し、若いバナナの実、カブなどと煮込んで、カレーをつくるのに大忙しです。
 アチェでは、犠牲祭など特別なときにヤギを解体します。解体するのは、イスラームの祈祷を欠かさず、村で尊敬されている男性です。ここでも、村のトゥンク(イスラーム指導者)が祈りの言葉を唱えながら、ヤギの首を斬ります。日本のと場問題について少し話すと、アチェの友人は驚いていました。
 贈呈式は10台のラパイ・パセ(大太鼓)ではじまります。05年8月、和平合意の調印を願って、バンダ・アチェから東アチェ県まで、ラパイ・パセの行進がありました(05年8月8日の活動報告を参照)。このとき出会った、もっとも優れたラパイ・パセの打者グループが、実はわたしたちが支援した西バクティア郡の村々の出身だったのです。ラパイ・パセの響きにとりつかれたわたしは、彼らのラパイをもう一度聴きたいと思っていました。その夢がかなったことになります。
c0035102_211575.jpg 小柄なグループの代表は、軽々とラパイ・パセを叩いています。どうして、こんなに太く体を震わすような音が出るのかわからないほどです。ラパイ・パセでは2種類の音しか出せませんが、リズムを少しずつ変えながら、ときに5台ずつ競いあいながら、男性たちはラパイ・パセを叩きつづきます。何時間聴いていても、飽きることはありません。
 10人によるラパイ・パセの演奏が終わったあとも、村の男性たちは交互にラパイ・パセを叩いています。みな、本当にラパイ・パセが好きなのです。25日夜中、ロスコン郡チョッ・ギレッで、チョッ・ギレッのグループとラパイ・パセ合計50台の競演があるため、西バクティア郡のいいラパイ・パセは温存されていることがわかりました。男性たちに誘われ、みんなで夜中、チョッ・ギレッまで行くことにしました。
 ラパイ・パセのあとは、制服を支援した女子中学生による小さなラパイと踊り、歌の披露です。正直、ラパイ・パセの迫力にはかすんでしまったかもしれません。巨大井戸のプシジュッ(清めの儀式)が終わり、いよいよヤギ・カレー。バケツに入れられたカレーが、あちらにもこちらにも配られ、すごい勢いで消費されていきます。みんな、血圧が上がらないか、ちょっと心配です。

○マタン・スリメン集落でのゴトン・ロヨン
c0035102_2122528.jpg 西バクティア郡での贈呈式後、マタン・スリメン集落です。雨季でトラックが入れず、道路の修復が延び延びになっていました。
 土砂と鍬、スコップなどはわたしたちからの支援ですが、実際の作業は集落の人びとのゴトン・ロヨン(相互扶助)でおこなわれます。ハンセン病で手や足の第一、第二関節までなくした男性も、女性も、トラックが石混じりの土砂を運んでくるたびに、鍬をもって均しに行きます。
 実は、生まれて30年以上、鍬をもったことがなかったわたしは、確実に役に立っていませんでした。女性たちには「あの格好!」と大笑いされたぐらいです。1~2時間程度でしたが、集落の人びとと一緒に汗を流し、一緒に涼むのは、やはり楽しく幸せです。

○再びラパイ・パセ
 汗だくだくになって家に戻り、マンディ(水浴)し、少し休憩してから、チョッ・ギレッに向かいます。エクソン・モービルのガス田や、ジャワ人移住村から近いため、道路は舗装されており、ほかの地域のことを考えると不思議なほどです。
 ラパイ・パセの競演は23時すぎにはじまりました。簡単に組まれた棒からラパイ・パセが吊るされ、その周りには男性たちが集まっています。周囲どころか、ラパイ・パセの下にしゃがんでいる男性たちもいます。すごい熱気です。
 ラパイ・パセの演奏については、もはや言葉がありません。地面が揺れるほどの迫力でした。渾身の力を込め、ラパイ・パセを叩きつづける男性たち、その響きに興奮している男性たちの姿を見て、アチェはマッチョ社会だとつくづく実感してしまいました。国軍・警察部隊が、アチェでの任務に就くことを恐れたのも理解できるような気がします。

○思い出をたどったパヤ・バコン
 26日はパヤ・バコン郡に行きました。2001年8月、かなりギリギリの思いをしながら、人権状況の調査をした地域です。そのときに村々を案内してくれた3人のうち1人は殺害され、1人は米国に亡命しました。軍事作戦の激化にともない、以来、この地域を訪れることはできませんでした。
 4年半前と比べると拍子抜けするほどに、平穏な道のりです。エクソン・モービルの第1~第4クラスターでも、国軍の姿はほとんど見られません。警備するのも、国軍から警察になっています。
 友人たちと4年半前に訪れたときのことを思い出しながら、パヤ・バコン郡へと向かいました。なかでも、もっとも印象に残っているのは、家で寝ているところ、国軍部隊に包囲され撃たれたおじいさんです。妻は即死、おじいさんは額から銃弾が入り、片目を失いました。そのおじいさんも、第1軍事戒厳令(03年5月~11月)のときに亡くなったそうです。オランダ時代から平和なアチェを知ることなく死んでいったおじいさんは、最期に何を考えたのでしょうか。おじいさんの家は、いまはもうなく、野原になっていました。
 アル・ロッ村では2000年、03年の2回、国軍兵士が女性たちをレイプする事件が起きました。昨年3月に彼女たちと会い、それ以来、彼女たちの子どもに奨学金の支援をしています。彼女たちもまた、平和だったアチェの記憶がありません。彼女たちが物心ついたときには、北アチェ県は軍事作戦地域に指定されていました(89年~98年)。はじめての平和な状況が長くつづいてほしい。それが彼女たちの思いです。
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by NINDJA | 2006-02-26 21:00 | NINDJAの救援活動
○泥棒に遭う
 この1週間、津波被災者支援活動が少し停滞してしまいました。20日未明、我が家に泥棒が入ったのです。朝4時ごろ、友人の「泥棒! 泥棒!」という声で目が覚めました。隣の部屋の窓をこじ開けられ、窓についている鉄柵のあいだから、活動を記録するために東京からもってきていたハンディカム、デジカメなどを盗まれました。友人たちの身の安全のほうが大事ですので、物品が盗まれたぐらいで済んで幸いではありました。
 泥棒後、さまざま「興味深い」話がありました。我が家の近くのある地域が、「泥棒の巣窟」と言われていること。ここに住む知人の話では、麻薬や大麻の売買もおこなわれており、買いに来ているのが国軍兵士や警察官だということ。つまり国軍・警察のバックアップを受けている彼らが、捕まるわけはないようです。
 盗難届を出しても、警察の対応が笑えます。保険のために、報告受理書を出してもらおうと思ったのですが、警察にあるパソコンは古いし、パソコンもつかえないらしく、以前の報告受理書に上書き+上書き保存するだけ。以前の報告受理書は、どこにいってしまうのでしょう? さらにカネまでせびられ、予想どおりの対応です。ちなみに、受理してくれた警察官、噂では麻薬漬けだとか。たしかに、言動は奇妙でした。

○3年ぶりに内陸部の村へ
 03年5月の軍事戒厳令以降、04年12月の津波まで、わたしは北アチェ県に来ることができませんでした。外国人の入域が事実上禁止されていたためです。津波支援で北アチェ県に戻ることはできましたが、津波被害を受けた海沿いの地域に限られていました。
 21日、3年ぶりに、内陸部の村に行くことができました。久しぶりに会った女性たちは、本当に暖かく迎えてくれました。
 お茶をごちそうになり、『アチェの声』(pp.80~82)で登場したピナン倉庫をまで、連れて行ってもらいました。男性が後ろ手に縛られ、目隠しされ、拷問された場所です。
 ピナン倉庫からの帰り道、2人の女性が左右から、軍事戒厳令中の体験を語ってくれましたた。1人は、父親を殺され、弟が自由アチェ運動(GAM)メンバーになり殺された経験をもっています。彼女はGAMと結婚し、軍事戒厳令中、夫の身代わりに監禁され、後ろ手に縛られ、目隠しされ、レイプされそうになったそうです。夫をおびきよせるためだと言われました。
 もう1人は、夫が庭でヤギ小屋をつくっているのを、国軍を監視していたと言いがかりをつけられ、暴行されました。もう年老いていて、いまも殴られ、蹴られたところが痛むそうです。
 2人とも、和平になってうれしいが、つづくとはまだ確信できないと言っていました。

○「傷つけられたけど、癒されていない」
 22日、我が家に軍事作戦の犠牲となった女性たち(計6カ村)が集まりました。津波前から、インドネシア民主化支援ネットワークは、地元のNGOと協力して、国軍に父親を殺害された子どもたちに奨学金を出しています(詳細はホームページを参照)。和平後の現在、この女性たちにどのような支援が必要なのか、女性たちのグループが自立していくために何が必要か、女性たちと話し合いました。
 会議の前、女性たちに和平について尋ねました。全員が口をそろえて「うれしい」と言いました。しかし、和平について満足しているわけではありません。彼女たちは、「傷つけられたけど、癒されていない」とはっきり言いました。国軍にレイプされた女性、夫を殺害された女性、夫の身代わりに拷問された女性…。彼女たちは、和平がつづくことを期待しつつも、まだ不安感をもっています。

○「エンジンの音を聞くと悲しい」
 22日夕方には、津波被災地であるサムドラ郡ブラン・ニボン村の漁民のおじさんが遊びに来ました。彼も、テレビのニュースで国軍が和平について語るのを聞いて、「和平がつづくとは思っていない。必ず、また(紛争が)起きる」と考えているようです。
 なおインドネシアでは、05年10月、燃料費が値上げになりました。IMFの構造調整政策のなかで、燃料費補助金がカットされたためです。値上げにともない、諸物価がほぼ2倍に上がり、人びとの暮らしを圧迫しています。
 ブラン・ニボン村の漁民のおじさんの場合も同じです。津波被災者への支援で漁船を得たのですが、これまでの軽油から灯油に切り替えざるを得ませんでした。彼は「エンジンの音を聞くと悲しくなる」と言います。
 燃料代を払うと、1日の収入が1万5000ルピア程度しか残らない、ときには赤字になることもあり、いまや漁具を売る店に70万ルピアの借金を抱えているそうです。
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by NINDJA | 2006-02-23 09:11 | NINDJAの救援活動
○東クアラ・クルト村を再訪
 17日夕方、日本から大学生3人がロスマウェに到着しました。これから一緒に活動することになります。その初日である18日、タナ・パシール郡東クアラ・クルト村を訪れました。これまで仮設住宅住まいだったのが、やっと家が建ち、人びとも村に帰ることができたからです。
 東クアラ・クルト村と隣のマタン・バル村の、津波で夫を亡くした女性たちに、現在の状況などについて聞きました。

<東クアラ・クルト村の状況>
・現在ある援助は、WFPからの食糧である。1人あたり月、援助米は10kg(以前は12kg)、魚の缶詰2缶、食用油5オンス、インスタントラーメン5袋。政府が約束した生活保障金月9万ルピアはせいぜい2月に1回しかもらえない。
・ドイツのHELPが家を建てたが、台所が狭すぎたため、仮設住宅でつかわれていた木材で改築しなくてはならなかった。この改築のために、大工への支払い15万ルピアかかり、WFPからの援助米(日本政府の支援)を売却している。
・HELPが建設した家のトイレは、まだ使用してはいけないと言われている。修理が必要らしい。
・以前は20万ルピア払える人が電気を引いていたが、今後どうなるのかわからない。HELPが建設した家には電灯がついているが、電気は来ていない。
・清潔な水は、水道公社がトラックで運んできて、手押しポンプ5カ所に貯める。
水を汲みにいかなくてはならないが、男手がなくたいへんである。夕方になると足りなくなる。井戸の水は塩水で、マンディ(水浴)するのもつらい。
・仮設住宅にいるあいだ、子どもが、漁に出る男性がいる家では魚を食べられるのを見なくてはならなかった。いまは各世帯で食事をするから、村に帰ることができて、本当に安心した。

<マタン・バル村の状況>
・マタン・バル村では、どこかの団体(女性は知らず)が家を建てているが、資材が足りず、まだ1軒も完成していない。第1段階として、約310世帯のうち70世帯の建設がおこなわれている。
・マタン・バル村の人びとは、いまだに仮設住宅で暮らしている。クアラ・チャンコイ村の仮設住宅が足りなかったため、クアラ・チャンコイ村の一部の人びともマタン・バル村の仮設住宅に入っている。
・津波で夫を亡くした女性3人は、仮設住宅の1部屋に入れられている。すでに年老いており、祈りの生活をしたいが、それぞれの孫が来て騒ぐため、祈りの生活が妨げられる。1人で生活したい。

 なかでも印象的だったのは、東クアラ・クルト村のある女性です。彼女には9歳、5歳、3歳の子どもがいました。津波に襲われたとき、9歳の子どもは父親(彼女にとっては夫)と、 5歳、 3歳の子どもは彼女が連れて逃げました。しかし彼女の手から 5歳、 3歳の子どもは離れてしまい、津波に呑まれました。さらに9歳の子どもを連れて逃げた夫も死にました。
 残った息子1人と暮らす彼女は、おしゃべりの合間に、こうつぶやきました。「いまは、ちょっとしたことを頼むのでも、なんでもおカネだから…」
 インドネシアでは「ゴトン・ロヨン」と呼ばれる相互扶助システムがあります(ときに政府に利用されることばではありますが)。マタン・スリメン集落での道路修復も、西ランチャン村の水道建設も、ロッ・ウンチン村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習をする場)建設も、わたしたちは資材を提供し、飲み物代を出すだけで、みんなのゴトン・ロヨンでおこなってきました(大工が必要な箇所以外)。
 いっぽうで、避難民キャンプや津波に襲われた水田や養殖池、塩田の掃除に賃金を出した団体もあります。津波被災者がもっとも必要としていたのは、現金を獲得することですから、この「food for work」プログラムを否定するつもりはありません。
 しかし、わたしたちは、1回きりではなく、継続的に現金収入につながる道具を支援することを選択しました。被災者たちも、わたしたちの支援が、どこかの財団からの資金によるものではなく、日本の人びとからのカンパだと知っているので、みな理解もしてくれました。
 いま友人たちは、「援助で村社会は崩壊した。ゴトン・ロヨンの精神はなくなった」と言います。夫を亡くした女性は、その被害をもろに受けています。

 女性たちとの話し合いで、わたしたちの1年前の支援にも問題があったことがわかりました。
 1年前、わたしたちは、サウォッ・サベェ、サウォッ・シランと呼ばれるエビを獲る漁具を支援しました。実は、女性もサウォッで漁をしていたにもかかわらず、支援対象にならなかったのです(クアラ・チャンコイ村では女性にもサウォッを支援)。
 東クアラ・クルト村を担当した友人(割合と新しい女性スタッフ)に確認したところ、たしかに女性たちからサウォッ漁をするという話を聞いたが、村の責任者になった男性から「それは男性の仕事だ」と言われたとのこと。さらに男性がサウォッ支援を受ける名簿を作成した際にも、女性たちのことを確認したが、そのままになってしまったというのです。
 女性たちからそのような話が出て、責任者の男性が否定したなら、責任者の男性を通さず、直接女性にサウォッ漁をおこなう女性の名前を聞くべきでした。さらに、この女性スタッフが、事務所の別の友人たちに相談していれば、何らかのアドバイスが得られたでしょう。
 さらに女性たちによると、この村の責任者の男性は、自分の近所の人間のみ名簿に加えたなど、ほかにも問題を起こしているようです。女性たちは、村の責任者の男性に対して不信感と不満をもっており、幸い、わたしたちのことはまだ信頼してくれているようです。この問題をどう解決していくのか、早急に話し合い、女性たちの信頼を失わないようにしなくてはなりません。
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by NINDJA | 2006-02-19 21:18 | NINDJAの救援活動