2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


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カテゴリ:NINDJAの救援活動( 73 )

○マタン・スリメンの道路修復
 オランダの団体から資金援助を受けたACH(地元のNGO)がマタン・スリメン集落の家建設をおこなったことは2月14日の活動報告で流させていただきました。家建設のための資材を運び入れるトラックが、集落へ通じる1本道(あぜ道)をデコボコにしてしまったため、今日は集落の人びとと道路修復をおこないます。
 朝から人びとが総出で、デコボコになったあぜ道(約500m)を平らにしました。しかし、このあぜ道までの道路が雨でぬかるみ、土砂を積んだトラックが入ることができませんでした。そのため、道路修復は後日に延期となりました。
 ちなみに、国際機関なら、ここで「food for work」プログラムをおこなうのでしょうが、村全体の利益であることから、村の人たちと話し合い、賃金を出すことはしませんでした。「food for work」は、もちろん短期的な現金収入の方法として意味があるかもしれませんが、いっぽうで「なんでもカネ次第」という意識を村に持ち込みました(この弊害については後送)。
 少なくとも、マタン・スリメン集落の人びととは、カネの有無に関係ない信頼関係を築いてきたので、わたしが集落に到着する朝9時前には、集落の人びとのイニシアティブで道路が平らになっていました。
 わたしは車をあぜ道の手前に停め、集落まで歩いたのですが、その帰り道、件のACHがハンセン病患者診察のため、看護士4人を連れて集落に来ました。わたしの車が停まっていることを気にせず、あぜ道へと車を走らせた彼らは、数mのところでぬかるみにはまり、身動きがとれなくなりました。せっかく集落の人が平らにしたあぜ道に、再び溝ができてしまいました。
 しかし、集落の人は誰も助けに行きません。それどころかオートバイで通りがかった男性2人(うち1人は集落長)は、彼らと話したあと、そのまま去っていきます。あぜ道の出入り口に立っていたわたしに「四輪者進入禁止の立て札を立てなきゃ。木を探してくる」ということばを残して。
 家を建てているあいだ、わたしが集落に行っても、ACHのメンバーは自分たちでかたまって、人びとと話をしていませんでした。ハンセン病患者だとして差別されてきた人びとは、それでも彼らに対して不満をぶつけることができませんでした。未完成のままの家が1軒残っていること、ペンキがはげていること、国軍からのひどい木材をつかっていること、すべて黙って受け入れていたのです。
 マタン・スリメン集落は、わたしにとって、もっとも居心地のいいところです。ほかの地域で「援助」の困難さを感じても、ここに来て、暖かい人びとに触れているだけで、わたしは安心できます。ACHを助けなかったのを見て、人びとの静かな怒りを感じました。

○西クアラ・クルト村のマルズキさんと再会
 さて上記の事件の直前、わたしがあぜ道を歩いていたときのことです。集落のほうから、男性が自転車に乗ってやってきました。どこかで見た顔だなぁ、と思っていたら、なんとタナ・パシール郡西クアラ・クルト村のマルズキさんでした。 マルズキさんは、津波で家や商売(ガソリン・灯油売り)道具だけでなく、義足も失いました。西クアラ・クルト村も、マタン・スリメン集落と同じくハンセン・コロニーです。
c0035102_20253635.jpg 05年5月に会ったとき、マルズキさんは松葉杖をつき、タバコを入れた小さなリュックを背負い、漁から戻ってきた男性にタバコを売る小さな商売をおこなっていました。義足があれば、自転車に乗って出かけられるのに、という言葉を聞き、(個人に対する支援なので、ほかの人には黙って)義足を支援していました。
c0035102_2026536.jpg 8月に西クアラ・クルト村を訪れたときは、息子が漁でケガをし、その手術でバンダ・アチェに行っていたため、マルズキさんに会うことはできませんでした。今日、はじめて義足をつけたマルズキさんに会えたのです。
 マルズキさんの西クアラ・クルト村から、マタン・スリメン集落までは、自転車で1時間半かかります。それでも1万5000ルピアの交通費を払えないマルズキさんは、こうして自転車に乗って、商売をおこなっています。
 ちなみに、このマルズキさんも、ACHの車がぬかるみにはまったのを見て、ニヤニヤ笑っているだけでした。後日、村を訪れることを約束して、マルズキさんもわたしたちも帰途につきました。
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by NINDJA | 2006-02-17 20:23 | NINDJAの救援活動
○マタン・スリメン集落
 ハンセン・コロニーのマタン・スリメン集落(サムドゥラ郡)を訪れました。支援してきた40カ村近くのなかで、もっとも好きな村のひとつです。
 この村では、ACHという地元のNGOが、TDHというオランダの財団から資金援助を受けて、家の建設をおこないました。しかし、インドネシア国軍からの質の悪い木材で建てられ、ペンキははげ、井戸もつかえない状態でした。そのため、川から水道を引きました。今日、はじめて水道を見に行きます。
 マタン・スリメン集落は、クタ・クルン村の一部です。しかし、ハンセン・コロニーだと差別され、村から養殖池で隔てられた、海沿いに集落があります。集落につながる道路は、養殖池のあぜ道のみです。
 昨年夏は乾季だったため問題なかったのですが、雨季の現在、このあぜ道はぬかるみ、さらに家の建設資材を運ぶACHのトラックによってでこぼこになっていました。重度のハンセン病患者は、もはやこの道を歩くことはできないとか。 ACHは道路の修復まで考えなかったのでしょうか。
 久しぶりに会ったおじさん、おばさんたちは、みな元気そうでした。わたしが訪れると、いつも一緒についてきてくれる重度のハンセン病患者のおじさんが、本当にうれしそうに笑ってくれて、思わず涙が出そうになりました。
 「あぜ道を運転するのに緊張して、ヘトヘトに疲れた! トラウマになりそう」と言ったら、みんなに大笑いされました。こちらでは金曜日午後は、モスクに礼拝に行かなくてはならないため、男性は漁に出ません。そこで金曜日に、村の人びと総出であぜ道を平らにしてくれることになりました。わたしたちは、トラック10台分の土砂を支援します。
 そんな話をしていると、「まずは一服しよう! このあいだのタバコ(こちらでは売っていないメンソール系)はもってきたか?」と聞かれました。みんな、よく覚えているのです。タバコを分け、「これで、やっと落ち着いた」などと笑いながら、おしゃべりはつづきます。
c0035102_143093.jpg 水道は順調でした。3つ建設した水槽のうち1つは、重度のハンセン病患者のおじさん2人がつくりました。指の第1、第2関節までないおじさんたちです。大工仕事で現金を得ようと、おじさんたちから「自分たちの手で」と言ってくれたそうです。立派な水槽ができました。

○西ランチャン村
 つぎに、同じく水道を引いた超貧困村の西ランチャン村を訪問しました。実は、この水道、とある問題を引き起こしていました。
 この村では、川から電気ポンプで水をくみ上げ、細長い村の中ほどと端に建てた水槽まで水道を通しています。川の近くに住む人から、自分の家の前にも水槽を建ててほしいと言われたのですが、川から直接水をくみ上げることができるため、要請を断ったことがありました。
 最近になって、この人が国有電力会社(PLN)に連絡、電気を止めてしまいました。よくある話なのですが、村の人びとは、電線にケーブルをつなぎ、勝手に電気を引っ張って電気ポンプを稼動させていたのです。
 村の男性のほとんどが出稼ぎに出てしまい、戒厳令中に義務づけられていた夜警をできる男性が3人しかいない村です。村の人びとが電気代を払えるわけもありません。
 そこで、ムナサ(村の祈祷場、集会場)までケーブルを引き、ここのメーターで電気使用量を測り、村が電気代を払っていくことになりました。村の人に必要なケーブルの長さを測ってもらうようお願いし、養殖池のミルク・フィッシュをお土産に帰途につきました。
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by NINDJA | 2006-02-14 23:28 | NINDJAの救援活動
○スヌドン郡でもバライ・プンガジアン建設
 女性たちの塩づくりの道具を支援したスヌドン郡マタン・ラダ村の人びとから、バライ・プンガジアン(子どもたちがコーランの練習をする施設)を建ててほしいという要請があり、今日、村まで行ってきました。
 同じく津波の被害を受けたバンタヤン村の人びとが、マタン・ラダ村に移住することになり、その謝礼として、地方開発企画庁にバライ・プンガジアンを建設してもらったのですが、小さすぎて、子どもたちが全員入ることができないようです。そのため隣にもう1軒建てることになりました。
 建設に際しては、資材を提供、あとは村の人びとが協力することになります。この間、援助が大量に流れ込んできたことで、全員の利益のためでも、カネがなければ動かない人びとも増えてしまったらしく、友人たちは「村社会が崩壊した」と嘆いています。村の人びとも「そうだなぁ」と納得、援助に依存するシステムをつくらないよう、働いた日数の半分には賃金を払い、半分には払わないという方法を提案してくれました。
 地方開発企画庁のバライ・プンガジアンでは、屋根にトタン板がつかわれていますが、わたしたちは涼しいようルンビアの葉をつかうことにしました。ただしルンビアの葉はヤモリの巣になるそうで、ハラームである(イスラームで禁止されている)糞がコーランなどに落ちないよう、天井にビニールシートを張ります。

○西バクティア郡の巨大井戸
 スヌドン郡から西バクティア郡に向かい、ロッ・ウンチン村を訪れました。東京駿河台法律事務所さんから子どものために支援された100万円で、小学生に制服を配ったところ、中・高生にも支援してほしいと要請されたため、そのデータ(名前、性別、学年、制服のサイズ)を入手しに行ったのです。
 2005年8月28日の活動報告でも書きましたが、ロッ・ウンチン村には、かなり高圧的な海兵隊基地がありました。和平合意によって、この海兵隊も撤退し、いま村は平穏です。
c0035102_075498.jpg ここでは、ムナサ・ハグ村との境にある水源で巨大井戸を掘り、ロッ・ウンチン村まで水道を引いたので、そちらも見に行きました。地方政府の支援で掘られた小さな井戸2つが完全にかすんでいます。村の人びとも「政府が関与すると、こういうことになるんだ」と笑っていました。
 西バクティア郡は、幹線道路から遠いせいか、自由アチェ運動(GAM)の拠点のひとつだったからか、海に面している地域が少ないせいか、わたしたち以外からの津波被災者への支援がまったく入っていません。「県知事から1度、インスタントラーメンを1人3袋支援されただけだ」と話す被災者は、「インドネシア」に対して不信感を募らせています。
 さらに1haのエビ養殖池に対し200万ルピアの復興支援があるはずなのですが、実際に被災者がもらったのは170万ルピアだけ。この問題については、汚職監視NGOが調査に来ていました。
 村の人びとからの要請で、25日、巨大井戸の贈呈式をおこないます。この地域には、ラパイ・パセと呼ばれる大太鼓を叩くのがうまいグループがあり、贈呈式のときに叩いてもらうようお願いしました。制服を受けた子どもたちもグループをつくって、小さなラパイを叩いてくれるそうです。いまから楽しみです。
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by NINDJA | 2006-02-12 00:08 | NINDJAの救援活動
○援助がNGOを崩壊

 2月8日、バンダ・アチェを経由して、ロスマウェ市に戻りました。津波後5回目となります。
 バンダ・アチェ市内中心部の復興は目覚しく、1年前にはまるでゴーストタウンのようになっていた地域では、新しい店も開かれ、賑わっています。「Tsunami Sejahtera(豊かな津波)」と名づけられた店もあり、人びとのたくましさを感じさせられます。
 いっぽうで地方の復興は進んでいないようです。なにより問題となっているのは2点。
 あまりに莫大な援助が流れ込んだため、NGOはほぼ壊滅状態です。紛争中も活動してきた友人の多くが、国際機関などからの援助で使途不明金を出したり、法外な給与をとったりし、被災者との距離が広がっています。2月1日の"Harian Rakyat Aceh"でも、「津波繁栄、アチェNGOを崩壊させる」と報道されました。このような動きについて、「NGOは『売春婦』に陥った。いや、そういっては『売春婦』に失礼だ。彼女たちは、自分のもつものを利用し、売っている。NGOは民衆を利用し、民衆の財産を売っているのだ」という意見まで、メーリングリストに寄せられています。
 また、被災者はまったく復興プロセスに参加していません。ほとんどの被災者は、自分たちが受けた支援について、どこからのものか、予算がいくらだったのかを知りません。そのため予算より少ない額しか受け取っていないというケースは、各所で垣間見られます。

○今後の活動

 津波後1年間、インドネシア民主化支援ネットワークは、とくに関係の深い北アチェ県、ロスマウェ市の36カ村でで支援活動をおこなってきました。2005年後半は、軍事作戦が激しかったり、遠隔地であったりしたために、援助が届きづらいスヌドン郡、西バクティア郡、タナ・パシール郡、そしてハンセン・コロニーの2カ村で、生活を立て直すための支援を集中的におこないました。
 本日、ロスマウェの友人たちと、今後の活動について話し合いました。わたしたちが協力している団体は、もともと、軍事作戦によって夫を殺害された女性たちの支援をしてきたこともあり、今後は女性を対象とした支援をおこなうことになりました。
 では、どのような女性を対象とするのか。仮に、とくに貧しい女性を対象とした場合、では誰が「貧しい」範疇に含められるのか。貧富の格差に関係なく、「援助は同じように配ってこそ公平」という考えの被災者もいるため、問題が発生する可能性が高くなります。津波によって夫を亡くした女性、もっと広く寡婦ということであれば、対象は明らかです。しかし、多くの援助団体が、このような女性を対象としたプログラムをおこなっているため、寡婦ばかりが援助を受けることになる恐れがあります。
 そこで友人たちからは、各村に、たとえばミシン数台置いた簡単な施設を建設し、そこで働きたい女性が自由に働き、現金収入を得ることができるようにしてはどうか、という案が出ました。そこで、それぞれの村の女性たちの能力に合わせて、いくつかのプログラムを準備し、たとえば縫製技術を伝えられる「先生」を準備するとともに、女性たちに市場へのアクセス、女性グループの運営方法その他をトレーニングしていくことになりました。
 これまで支援してきたエビ漁や、塩づくりは、季節に影響されやすいことから、季節に関係なく現金収入につながるプログラムを策定していきたいと考えています。
 道具を支援して終わりというものではなく、長期的な取り組みとなります。みなさまからのよりいっそうのご支援を寄せていただけると幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
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by NINDJA | 2006-02-09 20:06 | NINDJAの救援活動
 東京駿河台法律事務所さんから、事務所設立10周年を記念して、アチェ津波被災児童に対する支援100万円をいただきました。ありがとうございました。
 とくに支援物資の届いていないスヌドン郡、西バクティア郡、ハンセン病コロニーのタナ・パシル郡西クアラ・クルト村、サムドゥラ郡マタン・スリメン集落を中心に、子どもたちが必要としているものを調査したうえ、制服、靴、カバンなどの学用品を必要に応じて支援しました。
 このたびロスマウェから支援活動に関する報告が送られてきたので、ここでご紹介させていただきます。

○スヌドン郡
c0035102_1395542.jpg<マタン・ラダ村>
 1月3日、マタン・ラダ村の全小学生、中学生、高校生に対し、靴の支援をおこないました。ただ315人と数が多いため、まだ約90足の配給が終わっておらず、今週中に配る予定です。
※靴 5万5000ルピア×315足=1732万5000ルピア
<トゥピン・クユン村>
 1月3日、子どもたちへの支援のほか、バリ・プンガジアン(コーラン詠み練習の場)のための板30枚、ランプ2個、コーラン10冊を配りました。支援を全員に渡したわけではないため、当初、平等ではないという批判がありましたが、とくに貧しい家庭の子ども、孤児、まだ援助を受けていない子どもを優先させていると説明したところ、人びとは理解してくれました。
※制服 5万5000ルピア×20着=110万ルピア
 ボーイ/ガールスカウト用制服 5万5000ルピア×31着=170万5000ルピア
 靴 5万ルピア×39足=195万ルピア
 カバン 4万ルピア×7個=28万ルピア
 ジルバブ 2万5000ルピア×2枚=5万ルピア
 祈祷時ベール 8万ルピア×2枚=16万ルピア
 辞書 5万5000ルピア×2冊=11万ルピア
 教典 25万ルピア×1冊=25万ルピア
 クルアン 5万ルピア×10冊=50万ルピア
 ランプ 5万ルピア×3個=15万ルピア
 板 3万5000ルピア×30枚=105万ルピア

<マタン・パニャン村>
 数カ月前の調査の際、小学校の子どもたちが靴を必要としているとわかりました。ただ村の子どもの数が多いため、支援が十分か不安がありました。そのため孤児と貧困家庭の子どもを優先させました。また調査で、幼稚園児が制服を必要としていることもわかりました。1月4日に配給しました。
※靴 5万ルピア×39足=195万ルピア
 制服 5万5000ルピア×32着=176万ルピア

<マタン・プントン村>
 マタン・パニャン村と同様に、孤児と貧困家庭の子どもを優先させ、必要とされている靴を支援しました。1月4日に配給しました。
※靴 5万ルピア×30足=150万ルピア

c0035102_140970.jpg<ムナサ・サゴ村>
 マタン・パニャン村と同様に、孤児と貧困家庭の子どもを優先させ、小学生には靴、幼稚園児には制服を支援しました。1月4日に配給しました。
※靴 5万ルピア×35足=175万ルピア
 制服 5万5000ルピア×43着=236万5000ルピア

<ロッ・プウク村>
 マタン・パニャン村と同様に、孤児と貧困家庭の子どもを優先させ、必要とされている靴を支援しました。1月4日に配給しました。
※靴 5万ルピア×35足=175万ルピア
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by NINDJA | 2006-01-25 01:40 | NINDJAの救援活動
○西クアラ・クルト村で女性たちの生計支援

 「ハンセンの村」である西クアラ・クルト村の全世帯(女性)に対して、パンダン(ゴザの材料になる)とヤギに食べられないようにするための柵の材料、もしくは飼育用ヤギの支援をおこないました。以下12月10日に来た報告をお伝えします。

c0035102_1571485.jpg 西クアラ・クルト村の23人の女性は、すでに柵をつくり、パンダン(写真)の木やイモ、トウガラシ、バナナの木を植えはじめました。まだ仮設住宅に住んでいる女性たちは、雨季のため、あまり村に行くことができません。それでも女性たちは、誰が早いか、競って柵をつくっています。
 いっぽうヤギ支援は24人の女性が受けることになっています。12月3日、うち12人にヤギを供与しました。残すところ、村に戻った7人と仮設住宅に住んでいる5人になります。
c0035102_1572614.jpg 現在雨季がつづいており、仮設住宅はしばしば浸水します。そのため女性たちは、仮設住宅でヤギを飼うことができず、供与は遅れています。
 12月10日、仮設住宅に住む8世帯が、道路に近いマタン・ウリムの仮設住宅に移りました。浸水するいまの仮設住宅で生活することに、もはや耐えられなかったのです。
 仮設住宅に住む女性たちの状況にあわせますが、つぎは12月12日にヤギを供与する予定です。
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by NINDJA | 2005-12-12 01:57 | NINDJAの救援活動
○レバラン手当てを配る
 断食月も終わりに近づいた11月1日、ロスマウェの事務所で、わたしたちの活動の責任者になってくれている津波被災村の人びとに、レバラン(断食月明けの大祭)手当ての配給をおこなったそうです。ムスリムの人びとにとって、レバランはもっともうれしい日です。
c0035102_081057.jpg 配ったのは、砂糖、シロップ、レバラン祈祷のときにつかう腰巻。シロップは高めの、人びとが買うことができないものを準備したとか。友人いわく、人びとはレバラン手当てをもらったことがなく、遠くの村からもロスマウェまで来てくれたそうです。
 ランチャン・バラット村のおじさんは、「レバラン手当てをくれた人びとが長生きして、たくさんの祝福がありますように」と言ってくれたとか。つまりカンパしてくださった日本のみなさまのことですね。
c0035102_082157.jpg ところで、夏以来、ロスマウェの事務所とはSKYPEで頻繁に連絡をとることができるようになりました。「アチェがなつかしい。前に送ってもらったマタン・スリメン集落の写真をみて、思わず涙してしまった」と言ったところ、最近、頻繁に写真を送ってくれます。写真は、北アチェ県パントン・ラブからスヌドン郡に向かう自由アチェ運動(GAM)メンバーの行進だそうです(2005年9月14日)。和平合意以前では考えられない光景です。

○ロスマウェからの最新活動報告
<ロッ・ウンチン村>
 5×5mの井戸はほぼ完成しました。残りは屋根と囲いを残すのみです。ムナサ(村の祈祷所、集会所)とトゥンク・ダウド(ロッ・ウンチン村のイスラーム指導者)の家の前の水槽はセメント塗りが終わっていません。セメントがなくなってしまい、本日(11月14日)、20袋追加注文しました。今週中にはすべて完了するはずです。水量は豊かで、10t以上あると思います。
<マタン・スリメン集落>
 水道はすでに使用できるようになっています。住民によれば、非常に助かっているとのことです。いまは川まで水浴や洗濯に行く必要がなくなりました。
<西バクティア郡>
 ムナサ・ハグ村への漁具の追加支援を11月11日におこないました。ただ、まだ住民には配られていません。今週中に、80%ほど完成しているブランデ・パヤ村、ブラン・ル村へのブベェ、アンベ、バンデン用漁網とともに配給することになります。
 ロッ・ウンチン村には、まだ海兵隊員が駐屯していますが、少し平和になりました。住民は海兵隊詰所に出頭せず、海に出られるようになっています。いままで海兵隊員が作戦のために住民にオートバイを出させていましたが、それもなくなりました。
 この地域のGAMメンバーも、和平合意覚書が調印されて以来、村に戻るようになっています。ただ海兵隊員と出くわしても、海兵隊員が先に挨拶しない限り、 GAMメンバーは挨拶したがりません。
 ほかの地域でも、GAMメンバーはみな村に戻っています。みな農業や商売など、再び熱心に働くようになっています。もっとも怠け者のGAMメンバーは、夜警所でぼーっとしたり、友だちの家を訪れたりするだけですが。
 覚書調印後、景色に変化がありました。道路や市場で、しばしば長髪の男性を見かけるようになったのです。外見にいかにもGAMという特徴があって、住民はすぐわかります。(11月14日の報告)
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by NINDJA | 2005-11-19 00:09 | NINDJAの救援活動
ロスマウェの友人たちから届いた活動報告です。1カ月間の断食月も終わり、フルに活動が再開したようです。

○西クアラ・クルト村の報告
 2005年9月28日、まだサムドゥラ郡マタン・ウリムの仮設住宅に住んでおり、以前受け取ることができなかった小学生8人にジョンソン製自転車を供与しました。
 女性たちへのゴザ編みのパンダンの木を囲う柵/ヤギ支援は、まだ途中になっています。雨季に入り、いくつか障害が出ているからです。
 9月末から10月にかけて、雨がたくさん降り、竹を切るのが難しかったのです。10月半ばから切りはじめ、少しずつ集めているところです。竹はクタパン、トゥンゴ、グルンパンVII村で集めました。
 竹が集まってから、10月30日、西クアラ・クルト村を訪れましたが、雨のために道が悪くなっており、トラックが入ることができませんでした。そのため断食月明けの大祭が終わった11月9、10日、竹を西クアラ・クルト村に運びました。
 11月9日に運んだときは重すぎて、トラックがお隣のブラン・ニボン村(サムドゥラ郡)でぬかるみにはまってしまいました。そのため10日も輸送し、そのため輸送費が増えてしまいました。
 竹以外に柵をつくるための道具(釘、山刀、鍬、のこぎり、金槌)を11月11日に運ぶ予定です。
 ヤギ供与も、障害が出ています。第一に、雨季で土がぬかるんでいるため、仮設住宅では育てることができません。第二に、断食月です。竹の供与が終わったら、仮設住宅に住んでいる女性たちがヤギを育てる環境にあるか調べます。
 それ以外にも、10月1日から燃料費が値上がりしたことで、全般的に輸送費が値上がりしています。もともと30万ルピアの予算をつけていた輸送費が1回40万ルピアになりました。2回の輸送で済むはずでしたが、積載量が多かったことから3回になっています。(11月10日の報告)

c0035102_2382476.jpg○マタン・スリメン集落
 マタン・スリメン集落の水道設置もほぼ終了しました。ただ、いくつか問題が出ています。
 第一に、川から水を汲み上げるポンプが、当初考えていたものでは動力が足りず、村まで水を運ぶことができませんでした。そのため、70万ルピアのさらに大きなポンプに換えました。
 第二に、ポンプに接続する電線が、当初考えていた5万ルピアのものでは電流が弱く、9万ルピアのものに換えました。
 第三に、水槽のためのセメントを25袋必要だと考えていましたが、人びとがさらに大きな水槽を望んだため、あと6袋追加しなくてはなりませんでした(1袋2万5000ルピア)。(10月16日の報告)

c0035102_2384959.jpg○ブラン・ニボン村
 井戸と2つの水槽は完成しました。レンガが少しあまったため、人びとは3つ目の水槽をつくっています。
 パイプはやっと400m埋め終わりました。ただ断食月中なので、残りを埋めるのには時間がかかると思います。(10月16日の報告)

c0035102_2383838.jpg○ロッ・ウンチン村
 ロッ・ウンチン村の井戸(上の写真が掘りはじめたところ、下の写真はセメントで固めたところ)と2つの水槽は完成しました。しかし断食月中のため、パイプをいつ埋めるかはわかりません。ただ水量は多く、人びとは喜んでいます。
 漁具については、投網などは準備が完了し、あとは配布するだけです。アンベ(カニ獲りカゴ)は現在製作中です。 (10月16日の報告)
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by NINDJA | 2005-11-16 23:10 | NINDJAの救援活動
○警察に復讐(できるかな?)
 9月4日午後からスヌドン郡に行きました。新たに塩づくりをはじめたマタン・ラダ村の人びとと、器具買い付けの日にちを相談するほか、いくつかの村で追加の漁具支援を頼まれており、そのデータをとりにいくためです。
 マタン・パニャン村の被災男性、我が家に住む女の子2人、スタッフ、わたしと5人でアチェ音楽を聴きながら、気分よく車を走らせていると、ロスコン郡警察の一斉検問です。運転免許証、車両証を提示すると、一人の警官が「これはサバンの車だ。○○証はどこだ?(○○はあれこれ変わったので、結局わからず)それがなければ、違法車と判断するぞ」といきなり怒鳴ってきました。ほかの警官は「前進してください」と言っているにもかかわらずです。
 たしかに、わたしの車はサバン自由貿易港から入った中古車ですが、プレートナンバーはアチェ内しか運転できないNAではなく、州外に出られるもの。書類不備でもない。納得できないわたしが説明を求めると、「なんだ、お前は! 威張りやがって!」とさらに怒鳴られます。気の早いわたしも怒って、「(ロスマウェ)市長に電話する」と脅すと、「なんだ市長って、お前の親戚か?」。さらにこの警官の名前を尋ねると、「なんだ、お前は!」とまたまた怒鳴られます。
 無視して市長に電話したのですが、ちょうど電話は圏外。バンダ・アチェで車を探してくれた友人に電話しているあいだに、この警官は隣に座った友人に「携帯の度数がもったいないだろう。コーヒー代を払ったほうがいい(ここは小声)」「俺が発砲したら、住民がかわいそうだろう(なんの関係があるのか!)」などと言いつづけていたようです。
 それを知らないわたしが、冷静に「やはり、わたしの車は問題がないようですが、いったい何が足りないのですか」と質問。本当はカネ目当てなのに、わたしにそれを言えない彼は、「俺の忍耐もここまでだ。署に来るのか、ここで解決したいのか」と怒鳴るだけ。さらにプッツンきてしまったらしく、防弾チョッキで隠されていた胸章を見せ、「これが俺の名前だ!」
 友人と2人で、署に行く場合の手続きを聞いたあと、「ここで解決とはどういうことですか?」とわかりきった質問をすると、「要するに、和平ということだ!」
 というわけで、いくら払えば妥当かわからないわたしは、あとで友人に怒られるほどの額(6万ルピア=650円くらい)を払ってしまいました。でも悔しいので、ロスマウェ市長などなどに、このジャワ人警官の名前を送りつけました。ロスマウェ市長は「いまバンドゥンにいるが、ロスマウェに戻り次第、県警署長と話す」と言ってくれましたが、さてどうなったか。
 それにしても、こんな不合理なことを、アチェの人びとは日常的に忍耐しているのだと思うと、本当に腹が立ちます。この警官は、わたしが外国人だと認識できていなかったようだけど、わたしは外国人であり、いざというときはおエラいさんに頼める身だからいいですが、そうでない人びとは泣き寝入りです。下手にさからって、自由アチェ運動(GAM)と非難されれば、命の保証もないわけですから。あーあ、和平はどこにいった?

○ジャファルの死から5年
c0035102_1985123.jpg 9月5日はジャファル・シディックの墓参りに行ってきました。5年前の8月4日、北スマトラ州メダンで誘拐され、9月になって遺体で発見された人権活動家です。誘拐される直前には、日本にアチェ問題について訴えに来てくれました。誘拐されたとわかったのも、わたしとの約束に現れなかったことがきっかけでした(詳細は『アチェの声』をお読みいただけると幸いです)。
 9月5日は、当時発見された遺体がジャファルのものではないかという報道がはじめてあった日です。ジャファルが殺害された日がわからないため、埋葬された8日が「命日」になるのかもしれませんが、8日にはロスマウェを発たなくてはならないため、5日にしたのです。
 2年間の戒厳令中は北アチェ県に来られませんでしたので、ジャファルの墓参りも 3年ぶりになります。5年前の埋葬から考えると、隔世の感があります。メダンから遺体が移送されるというので、20時ごろジャファルの家に向かいました。当時は20時というと、怖くて外に出られない時間でした。車も人もいないなか、ベチャに乗ってジャファルの家に向かったことを思い出します。
 ジャファルの家には「2005」とペンキで大きく描かれています。これは5年前からあったものでした。ジャファルが描かせたというのですが、なにを思ったのでしょうか。2005年に和平合意が結ばれるという予感があったのでしょうか。

○「われわれは誰をも疑っている」
 9月6日、西バクティア郡に行ってきました。帰国前に、海兵隊に出頭するためです。津波被害を受けたほかの地域は問題ないのに、なぜ西バクティア郡だけ出頭を命じられるのでしょうか(8月28日の活動報告を参照)。
 出頭して話をしていると、「作戦をしている地域について、安全だと考えたことはない」「われわれは誰をも疑っている」「ここの人びとも笑っているが、実際には恐ろしいものだ」といったことばが、海兵隊員から飛び出します。
 和平でしょ? 作戦はしていないでしょ? なんて聞いても、通用しないし、住民に迷惑がかかるだけなので、ヘラヘラ笑いながら、海兵隊が飼っている犬をかまっていました。この犬、かわいそうなことに、わき腹に「5」と大きく毛が刈られていました。海兵隊第5大隊の意味ですね。
 ロッ・ウンチン村のコーラン詠みの施設は、ほぼ完成に近づいていました。あとはペンキを塗るだけです。村の大工さんと、水道についても話し合い、被災者支援のほうは順調です。
 被災者から、大量に干エビをもらって帰りました。わたしが日本にもってかえれるように、前々から被災者のあいだで集めていてくれたそうです。でも、結局冷蔵庫に入れたまま忘れてきてしまいました。おじさん、ごめんなさい。

○そしてロスマウェ発
 7日はラパ・イ(太鼓)とスルネカレー(笛)の練習。スルネカレーを吹くには、息を吐きながら吸うという、高等な呼吸法が必要です。飽きっぽいわたしは、たぶん挫折するでしょう。ラパ・イには2種類あり、わたしが練習したのは、小さなラパ・イ・プサンガンです。4種類の音を出すことができます。ラパ・イだけでも、スルネカレーだけでもイマイチなのですが、これが組み合わさると、なんとなく哀愁漂うアチェの伝統的音楽になります。
 ラパ・イとスルネカレーを抱えて、8日はロスマウェ出発です。あっという間の1カ月でした。「津波のおかげで」北アチェ県に戻ってくることができるようになり、今年に入り、大学の休みの時期にはずっとアチェにいます。日に日に、日本から切り離されていく自分を感じています。日本に戻って適応できるのでしょうか。
 本当はジャタユ機でロスマウェ→メダン→ジャカルタと飛ぶはずでしたが、技術的理由でジャタユのフライトがなくなり、メダンまではバスでした。警察の違法徴収が増えているのが驚きでした。
 バスの話題は、治安部隊の違法徴収とマンダラ機事故。マンダラ機には2トンのドリアンが積まれていたため、重量オーバーで離陸できなかったというのです。マンダラ職員がカネのため、ドリアンをスマトラからジャカルタに送ろうとしたのが原因というのですが…。
 現在、インドネシアは石油危機でもあります。いつの間にか石油輸入国となり、また経済立て直しのための燃料補助金削減→燃料費値上がりも問題になっています。が、実は、どうも国営石油公社(プルタミナ)、治安部隊あたりがグルで、石油を横流ししていたようです。最近のホットなニュースです。
 こういうニュースやら噂話やらを聞いていると、インドネシアが国家として、それでも成立しているのが不思議にすらなります。かなりの破綻国家だと思うのですが、ジャカルタは高層ビルが燦燦と輝き、ロスマウェからのおのぼりさんであるわたしには、同じ国のなかとは思えない別天地だったのでした。
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by NINDJA | 2005-09-10 21:11 | NINDJAの救援活動
8月31日:マタン・スリメン集落で洗剤10袋、石鹸5個を全29世帯に供与
9月1日:ロスマウェで石油タンカー火災

○「貧乏人の養殖池」

 今日は、サムドゥラ郡ですでに支援の終了した村々の様子を見に行きました。まわったのは、水道を敷設した西ランチャン村とカンプン・ラマ集落、そしてサウォッと出会うきっかけとなったブラン・ニボン村です。
 サムドゥラ郡の郡庁所在地であるグドンから、村々をつなぐ郡横断道路に入ると、必ず誰かからか挨拶されます。2月末から3月にかけて漁具を支援した村の人びとです。ほかと比べて支援が届きやすく、多くが自分で掘っ立て小屋を建て、元の村に戻って生活を立て直したサムドゥラ郡については、マタン・スリメン集落をのぞいて支援を終了しました。それでも、いまも人びととの交流はつづいています。
 西ランチャン村のアイさんは、友人たちの「養殖池仲間」です。友人たちは、助成金に頼らなくても済むNGO、助成金がなくなって給料がなくても活動を継続することを目指しており(話は横道にそれますが、実際に給料がない時代は各自村からコメを運び込んで食いつないだのでした)、ほかの NGOと比べると雀の涙の薄給から、ささやかなビジネスをしています。そのビジネス(?)のひとつが西ランチャン村の養殖池。アイさんが所有する養殖池で、エビとミルクフィッシュを育ててもらっています。西ランチャン村の人びとと、養殖を通じて、つきあいつづけるという目的もあります。
 そもそも養殖池を所有しているというと、それだけで金持ちのイメージだったのですが、それだけではないようです。先祖から土地を受け継ぎ、水田だったところを養殖池にし、小規模の養殖を営んでいる人もいます。アイさんもその一人です。
 同じような養殖池のあるマタン・スリメン集落の人びとは、「貧乏人の養殖池」と笑います。津波後、ジャカルタなどに住む金持ちの養殖池が早々と復旧する一方で、「貧乏人の養殖池」は、人びとが自分の手で掃除し、あぜ道をつくり直し、池に入れる稚魚や稚エビの資本を借金し…と時間をかけて復興への道を歩みます。 しかし北アチェ県の養殖池は、すでに集約池で土地が破壊され、エビ養殖としてはつかえなくなっているところが多いようです。西ランチャン村でも、エビが病気になってしまいました。当たれば儲けの大きいエビ。エビ養殖は博打のようです(そして、わたしの友人は博打に負けたのでした)。
c0035102_19224373.jpg アイさんが、養殖池のミルクフィッシュ(こちらは無事だった)をジャラ(投網)で獲ってくれました。2尾もらい、我が家の夜ご飯にします。

○被災者同士の村を越えたつながり

c0035102_19232076.jpg ブラン・ニボン村のイドリスさんは、わたしたちにプカット・ソロンのことを教えてくれた漁民です。より貧しい被災者を支援したいという、わたしたちの気持ちを理解してくれたうえ、自分の村だけでなく、わたしたちが気づかない被災地域についても知らせてくれ、いまにいたるまで協力しつづけてくれています。「ハンセン病の村」として隔離されてきたマタン・スリメン集落の存在も、そして集落でプカット・ソロンする漁民がいることも、イドリスさんがいなければ知らずに終わっていたかもしれません。友人の一人(男)は、イドリスさんを父のように慕い、「ワリ(保護者、後見人)」と呼んでいるくらいです。
 イドリスさんの家でヤシの実とお菓子をいただきながら、おしゃべりです。偶然、タナ・パシール郡西クアラ・クルト村(ハンセン病の村)のワハブさんが通りかかり、ワハブさんも加わります。柵について、会合後問題になっていないか聞くと「大丈夫」との返事。一安心です。
 さらに西バクティア郡ムナサ・ハグ村のアブドゥサラム(アブドゥルサラムではない、と本人が強調。GAMメンバーにアブドゥルサラムという名前があるため、間違えられると困るからです)さんまで来ました。
 支援の話、村の状況など、話したいことはつきません(が、アチェ語の会話なので、悔しいことに、わたしには部分的にしかわからない!)。こういう雑談から、わたしたちの支援で問題が生じていないか、どのような点に気をつけるべきか知ることができます。

○海兵隊が駐屯するカンプン・ラマ

 最後にカンプン・ラマ集落です。水道を敷設したあと訪れていなかったので、どうなっているか気になります。
 ここでは、川から3つの貯水槽まで水を引いています。が、なんと1つしかつかわれていない! しかも川からもっとも遠い貯水槽までのパイプが掘り起こされ、はずされています。
 実は、養殖池と道路の整備のために重機が入ることになり、パイプを傷つけないように掘り起こしていたのです。人びとに「一番端の水が塩からいのだけど」と不満をぶつけられたのですが、わたしにはなすすべもありません。
 それにしても、なんとなくカンプン・ラマ集落では、居心地の悪さを感じます。村に親しみがもてないというか、人びとと距離を感じるのです。なぜか異様な村です。
c0035102_19235693.jpg その理由かもしれないものが、あとで判明しました。なんと村の端、川沿いにスラバヤ出身の海兵隊が詰所を建てていたのです(写真は子どもをダシに撮影した海兵隊詰所)。ボランティアをしてくれている女子大生(父親を国軍に殺害された)が、「彼らがいたら、そりゃ異様になるよね」と一言。もちろん因果関係は証明できません。
 海兵隊のトラックの出入りが激しかったため、川にもっとも近い貯水槽へのパイプの調子も悪くなっていました。それで現在1箇所しかつかえなくなっていたのです。
 村の男性に「一番大事な祈祷所の前の貯水槽がつかえるから」と言ってもらいましたが、残念です。重機による整備が済んだら、村の人びとがパイプを設置するとのこと。そのときに再度見に来たいものです。
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by NINDJA | 2005-09-03 02:20 | NINDJAの救援活動