2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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カテゴリ:NINDJAの救援活動( 73 )

○ロッ・ウンチン村に水道を
 インドネシアでは到着時発給ビザが30日のため、25日にマレーシアのペナン島に行ってきました。1泊だけし、そのままトンボ帰りです。26日の夜にメダンからロスマウェまで車で戻ったのですが、スウィーピング(一斉検問)の数に辟易です。自家用車で女ばかり乗っているということで、そのまま前進してもいいと言われたものを含めると、東アチェ県、北アチェ県だけで10回くらいのスウィーピングでした。多くの場合、トラックとバスのみが止められていましたので、かなりの可能性で「違法徴収(pungli)」するためと思われます。さて、和平はどこへいったのか。
 27日は、連日、村に行っていたため、見る影もなくドロドロになった車を洗ったり、ガソリンを入れたり、細々した仕事を片付け、今日から活動再開です。まず、22日に訪れた際に要請されていた水道を敷設するため、西バクティア郡ロッ・ウンチン村に事前の調査に行きました。
c0035102_1134233.jpg ここではコーラン詠みの練習をする施設の建設もおこなうことになっています。27日、建築資材の買い付けをしていたため、今日から作業がはじまっていて、22日の活動報告の写真にあるような施設は、すでに壊されていました。村の大工さん 2人のほか、人びとが作業に参加しています。ちなみに建設費用は約650万ルピア(7万5000円)。100年近いという柱のうち、いまでもつかえるものは、そのままつかいます。
c0035102_1142135.jpg 村の人びとと話していると、海兵隊員が来て、実にうっとうしかったため、ロッ・ウンチンとムナサ・ハグの村境にある水源を見に行きます。水源とする地点に5× 5× 6mの大きな井戸を掘り、ムナサ(村の祈祷所、集会施設)、そしてコーラン詠みの練習をする施設まで 700mの水道を引きます。ここはジャカルタに住むお金持ちの土地です。以前、井戸の支援があったのですが、村の人びとは「だまされ」、計画よりずっとずっと小さい、ふつうの井戸でしかなかったため、村全体に水を供給することはできなかったそうです。
 水道について、村の人びとと話し合ったあと、ムナサ・ハグ村でコーヒーを飲むことになりました。ここにロッ・ウンチンの海兵隊部隊司令官が登場。「村の活動については、なんでも出頭して、報告しなくてはならない」とご立腹です。部下の海兵隊員は、庭で自動小銃を構え、なにかに狙いをつける真似をしています。村の人びとは、「なにか飲みませんか」にはじまり、とにかく相手をなだめるため、必死でお愛想を言っています。
 ちなみに津波の被害に遭った、ほかの地域で「かならず出頭」なんていわれることは、ほとんどありません。2、3月は、まだ武力衝突などがありましたので、たまたまその直後だと出頭しなくてはなりませんでしたが、和平合意が結ばれたいまはなおさらです。北アチェ県知事からの推薦状のコピーを村の人びとに渡し、村長さんに報告に行ってもらうようお願いしました。

○マタン・スリメン集落でも水道を
c0035102_115194.jpg 海兵隊員の姿に、コーヒーもまずくなるような思い。早々に引き上げました。マタン・スリメン集落に向かいました。ここも水道敷設を要請されています。24日にも水源とする川からの距離、貯水槽を建てる場所などについて話し合っていたのですが、建築資材の確保も含めて、再度の話し合いに行ったのです。
 マタン・スリメン集落は、ずっと家の支援が決まらずにいました。5月ごろオランダの財団(TDH)から家の支援を受けられるかもしれないという話があったのですが、実際に受けられるのかどうかわからないまま。セーブ・ザ・チルドレンが仮設住宅を建てることになりました。けっきょく、この集落には2軒ずつの家が建っています。
 さらにTDHから資金が出て、地元のACHというNGOが建てている恒久住宅について、井戸やトイレも完備されたものとなっているのですが、その井戸水が塩からいのです。人びとのなかには、井戸を壊してくれと頼む人も出ているそうです。
 友人たちと、助成金を出す側と、受け取る側の両方の問題について議論になりました。地元のNGOが助成金の申請をしても、すぐに回答が来るわけではないし、そうすると村の人びとには約束できない。村の人びとは、とにかく早く支援してくれればいいわけで、別の団体で支援してくれるところがあれば、そちらを選択する。そこで助成金がおりた場合、重複することになる。助成金を出す側(財団など)と受け取る側(地元のNGOなど)のあいだに信頼関係があり、受け取る側の自由裁量でできる体制がないと、かなり効率が悪そうです。
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by NINDJA | 2005-08-29 10:59 | NINDJAの救援活動
 18日につづいて、スヌドン郡を訪問しました。18日には、ビルン県のお葬式に行っていて、トゥピン・クユン村の人びととほとんど会えなかったためです。
 西バクティア郡だけでなく、ここでも出頭義務が残っていました。2月に訪れた際、海兵隊に出頭した際に棍棒で殴られた男性に会いました。その後も住民が殴られる事件があり、出頭義務もゆるくなっていると聞いていたのですが……。
c0035102_15351450.jpg それでどころか、18日にお葬式に出かけた人びとは、「渡航許可」もとっています。お隣の県(以前は同じ北アチェ県だった)に行くだけなのに、しかも和平合意が結ばれたはずなのになぜ? 不思議すぎます。
 さて18日に頼まれたプマタン修繕ですが、プマタンについて、わたしが大きな勘違いをしていたことが判明しました。「水を溜めるところ」と聞いていたので、18日の報告の写真のことだと思っていたのですが、塩田のあぜ道のことでした。c0035102_15353688.jpg津波で壊れたプマタンを埋める支援が欲しいということだったのです。
 ここでは土の量を「スムール(井戸)」という単位で表現します。プマタン5m分埋めるために、1スムール(5×5×6m)の土が必要です。以前、ショベルカーをつかって塩田整備の支援をおこなおうとした団体があったようですが、塩田にショベルカーが入れず、そのままになってしまったようです。1スムール2万5000ルピアの賃金で、被災者が人力で掘り、プマタンを修復することになりました。200スムール分の支援をします。
c0035102_1536489.jpg その後、新たに塩づくりをはじめたマタン・ラダ村の人びとへの器具供与について、人びとと話し合いをしました。東ウレェ・ルベック村と同様の器具、いまは塩水を煮立てる掘っ立て小屋がないため、屋根を葺くルンビアの葉を支援する約束をしました。
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by NINDJA | 2005-08-24 01:33 | NINDJAの救援活動
○銃弾の痕残るブランデ・パヤ村
 西バクティア郡は、海に面している地域が少ないせいか、幹線道路から遠いせいか、自由アチェ運動(GAM)の拠点のひとつのせいか、いまも支援の手が届かないでいます。わたしが唯一の外国人で、本当に些細な支援かできていないにもかかわらず、「頼れるのはアッラーの神とナツコ」と言われるほどです(自慢ではなく、それほどに状況がひどいということのあらわれです)。いまも人びとは、支援した漁具で獲れたカニやエビをロスマウェまで届けてくれます。これまで訪問できずにいた村も含め、今日は西バクティア郡を訪れました。
c0035102_14582434.jpg 最初に訪れたのはブランデ・パヤ村です。川(河口)で、サンパン(カヌー)に乗った漁民が、マングローブの下にブベェ(カニ獲り籠)を仕掛けています。ブベェには、カブトガニもかかります。このブベェでカニを獲り、サンポイニッ(西バクティア郡庁所在地)の人が所有するクランバに入れて、1週間ほどカニの中身が詰まるようにし、その売り上げの一部をもらうのだそうです。干潮時にはジャラ(投網)でカニを獲ることもできます。何の物音もせず、静かな時間が流れます。
 しかし、ここでは2回、流血事件がありました。アチェが軍事作戦地域に指定された直後の90年に2人、2001年に3人が川岸に建っている掘っ立て小屋で殺害されたのです。2001年の事件では、3人のうち2人がGAMメンバーで、国軍と銃撃戦になったのです。そのとき一緒に殺害されたのは高校生だったといいます。この掘っ立て小屋には、いまも銃弾の痕が残っています。
 実は、今朝も「事件」が起きたばかりでした。ロッ・ウンチン村にある海兵隊第5大隊詰所に男性が呼び出され、しゃがんだ格好で歩かされたのです。男性は、理由がわからないと言います。周囲で、「ちゃんと出頭していなかったんじゃないの?」とおじさんたちが聞いています。
c0035102_1459734.jpg 西バクティア郡では、いまだに男性たちが毎週、海兵隊詰所に出頭する義務があります。軍事戒厳令以降の住民管理政策のひとつである出頭義務は、津波後、北アチェ県海岸沿いのほとんどの地域で実施されなくなりましたが、西バクティア郡ではまだ残っているのです。
 この男性は出頭していたため、なぜ「運動」させられたのか、みなで首をかしげていました。しかし、こんなことは日常茶飯事。男性たちは、軍とはそういうものだと悟りの境地です。和平についても、みな期待していなそうです。

○津波後、男たちは出稼ぎに
 いままで一度も訪れられず、支援もできずにいたのがブラン・ルゥ村です。林のなかの道なき道の先に、男性たちが漁をする場所があります。しばしば海兵隊部隊がここで野営するため、来ないほうがいい、と言われていたのです。
 なんと、ここでもRapa-iの人(8月8日の活動報告を参照)に会いました。十数台のトラックのなかで、もっともわたしが気に入ったトラックに乗り込んで出会ったのが「Grup Rapa-i Pase Rencong Pusaka Raja Buah」の人びと。みな主催のAceh Kita財団の黒いTシャツを着るなか、彼らだけ青いTシャツで、「これは選りすぐられた人たちだけに与えられたんだ」と誇らしげでした。西バクティア郡出身とは聞いていましたが、まさか支援対象村で青いTシャツと出会うことになるとは思っていませんでした。聞くと、Rapa-iはブランデ・パヤ村のグループ長のところに置いてあるそうで、「早く言ってくれれば」と一緒にいたおじさんたちに言われてしまいました。
 ブラン・ルゥ村の男性たちのなかには、津波で養殖池が破壊されてしまい、漁具も流されるかボロボロになってしまったために、バンダ・アチェまで出稼ぎに出ている人もいるようです。バンダ・アチェでは仮設住宅建築のために人手を必要としており、村の男性たちは漁民から大工へ(おそらく一時的に)転身したのです。
 ここではブベェ、アンベ(刺し網)、ジャラという、ほかの村に供与した漁具のほかに、サンパン(1隻1万円程度と思われる)を求められました。サンパンは、ほかの村からも要請が出ています。西バクティア郡は、わたしがみた津波被災地のなかでも最貧困地域で、支援もないことから、支援したいと思っていますが、その場合5カ村全部にいきわたらねばなりません。現時点で残っているカンパが約600万円。ほかの地域の要請もあり、実現するかどうか…。
 さらに湿疹のできている子どもが多く、郡の保健所では治らなかったため、病院に連れて行きたいと、お母さんたちから言われました。交通費もない人びとのため、サンポイニッでスダコ(小型乗合自動車)をチャーターし、ロスマウェのチュッ・ムティア病院間の送迎をすることになりました。その前に、無料で治療を受けられるJPSという書類をそろえてもらうようお願いしました。

○軍への「お土産」

c0035102_15074.jpg 最後に訪れたのはロッ・ウンチン村。前出の海兵隊詰所がある村です。子どもたちがコーラン詠みの練習をする施設の支援を要請されていました。いまの建物は津波のときに階段が流され、コーランやキタブ(聖典)もボロボロ。なにが必要かの相談をしに来たのです。
 この村も海兵隊に苦しめられています。海兵隊部隊の交替時には、レンチョン(アチェの伝統的な短刀)をお土産にもってかえりたいから買って来いと命じられた、携帯電話のプリペイドカード、タバコを買いに行かされることはしばしば。男性たちが、それぞれの体験談を話してくれます。ちなみにレンチョンは12万ルピアのものがいいと指定までされ、8本買わされた男性は96万ルピアの支出です。なかには携帯電話(230万ルピア)を買わされた男性もいます。「ジャワでは携帯電話などもったことない兵士が、自分たちに携帯を買わせるんだから。しかも安いのではイヤだと言うんだから」
 おカネは払ってくれないの?と聞くと、「そんな兵士いるわけない」と一言。借金してでも軍の要求するものを買うことで、自分たちの無事を買っていると、男性たちは思っています。

○西クアラ・クルト村の柵問題
 7月11日、8月11日、16日にお伝えした柵問題を解決するため、16時からは西クアラ・クルト村で女性たちと会合です。隣の郡ですが、一度幹線道路に出なくてはならず、非常に不便です。この間、毎日200km以上の道のり、しかもデコボコ道を走っているので、車もすぐ痛むだろうと予想されます。
 さて肝心の柵問題ですが、土地のない女性に別の支援を提案し、ヤギ飼育という案が出たところ、予想どおり、とくに若い女性たちから、自分たちも柵をやめてヤギ飼育に切り替えたいという意見が出ました。ここから女性たちの言い争い。
 西クアラ・クルト村は、仮設住宅に住む被災者と、元の村に戻ってきた被災者とに分かれています。仮設住宅に住む被災者は、海に近い元の村に戻りたくないと考えており、元の村に戻ってきたハンセン病患者を中心とする被災者は、ぬかるみに建っている仮設住宅では暮らしていけないと考えています。ここから、いつでも両者のあいだが対立してしまっているようなのです。
c0035102_15218.jpg 「わたしたちが柵を頼んだわけではない」という意見まで、仮設住宅に住む女性たちから出てきます。NGO活動をはじめたばかりのスタッフでは収拾つかず、悩みに悩んで、けっきょく、わたしが口を出してしまいました(いまも口を出してよかったのか悩んでいるのですが)。女性たちが団結してほしいこと、そうでなければ支援することにも躊躇せざるを得ないことを伝えると、一人の女性が「じゃぁ、みんな柵でいいわよ!」と言います。では土地のない人はどうするのか聞くと、「もらった竹や器具を売ればいい」と別の女性。これに対して、周囲の女性がまた声を荒げ、騒然とします。
 けっきょく、柵を希望する女性には柵、ヤギ飼育を希望する女性にはヤギ、両者ともほぼ同額、ということで落ち着いた、と思いきや、「ミシンが欲しい」「資本が欲しい」といった声も出てきて、また一騒動。
 146億円の支援を決めた日本政府の人間でもなく、政府や国連などから助成金を受けている大きなNGOでもないわたしができることは限られていますし、日本で小学生がお年玉をカンパしてくれたり、学生がコンサートや写真展を開いてカンパを集めてくれたりした姿を思い浮かべると悲しくなってしまいました。
 わたしが届けるのは、こういう日本の人びとからの支援であることを理解して欲しいとお願いし、女性たちも納得してくれたようでした(と信じたい)。柵にかかる費用とあわせて、ヤギを1頭ならメス、2頭ならメスとオスを支援することで決着、47人からそれぞれの希望を聞いて決着です。
 本当に住民の意思を反映できていないという思いとともに、けっきょくおカネをもっているわたしのほうが立場が強いということに、ひどく落ち込んでしまいました。少しでも、そうではないかたちでの支援をおこないたいと思って努力しているつもりなのですが、本当に難しいです。
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by NINDJA | 2005-08-23 01:56 | NINDJAの救援活動
○漁船はくじ引き
 タナ・パシール郡を訪れました。マタン・バル、東クアラ・クルト、クアラ・チャンコイ村は、隣り合った兄弟村です。避難生活の際は、クアラ・チャンコイ村だけロスコン郡に避難。クアラ・チャンコイ村との比較で、タナ・パシール郡内で避難したマタン・バル、東クアラ・クルト村の人びとは援助物資が横領されていることをよく知っていました。
 さて、その援助ですが、いまもさまざまな問題が起きているようです。 たとえばマタン・バル村では、漁船が社会省から支援されました。当初は漁船11隻に加えて、魚網などを購入するために現金30万ルピア、ガソリンをポリバケツ3杯分などの支援が約束されていたのですが、実際に供与されたのは、漁船10隻、現金10万ルピア、ガソリン2杯、といった具合でした。差額分がどうなったのか、いまも問題になっているようです。
c0035102_1048472.jpg ここれは2隻の漁船を3人が所有し、3人で収穫を分けるシステムです。10隻となると15人しか漁船を所有できません。そのため、人びとは、彼らがもっとも公正と考えるくじ引きで漁船の所有者を選びました。ちなみに仮設住宅についても、数が足りなかったため、くじ引きで入居者を選び、くじに外れた人びとのなかには、いまだにキャンプ生活の人もいます。サムドゥラ郡の仮設住宅は、ほとんどが入居したがらずあまっているし、もう少し事前の調査をきちんとするべきだと思うのですが…。
 女性への支援も問題になっています。女性たちは、養鶏、菓子づくり、縫製などをおこなっていましたが、女性たちを対象とした支援はほとんどありません。またあるNGOがミシンを支援し、協同組合をつくろうとしたのですが、これがいまだに「紛争」の種になっています。
 津波後の支援活動を通じて、協同組合をつくろうとしたNGOをしばしば見てきました。しかし被災者たちは、協同組合構想を嫌います。個人の利益を追求したいというのもあるのですが、自分たちでグループをつくり、会費を払うことは厭わないので、それだけではなさそうです。被災者を信頼していないのか、どういう事情かはわかりませんが、多くの協同組合構想において、被災者とは無関係の町の人間が協同組合を管理する職員として雇われています。マタン・バル村へのミシン支援でもそうでした。
 組合のため、という名目で、被災女性たちは無料で子どもの制服をつくるよう「命じられ」、いっぽうで組合職員が携帯電話やオートバイを購入しているのが、被災女性たちには受け入れがたかったようです。「子どもたちのためにおカネをもらわないのはいいのだけど、なんで津波と関係ない人たちが協同組合を仕切っているの?」とは、津波までバタム島で出稼ぎ、縫製業に従事していた女性のことば。
 その子どもたちへの支援もまた問題があります。小学生への制服や学用品の支援について、たとえばUNICEFはスポーツ大会のようなものを開き、そのイベントに参加した子どもだけ、しかも競争に勝った子どもだけが受け取ることができるとか。イスカンダル・ムダ肥料社から中学生向けに、カバンと本が供与されたが、1学年全員にいきわたる数ではなかったため、いまだに配れずにいるとか。
c0035102_10485931.jpg 本当に支援というのは難しいです。ちなみに、わたしたちが2、3月に供与したサウォッは、いまもつかわれていました。女性たちがプカット・ソロンするクアラ・チャンコイ村では、サウォッで獲れたエビが干されているのも見かけました。かなりの美味です。

○ロスコンでエキスポ

 2時ごろまでタナ・パシール郡にいて、その後、ロスコンで開かれるエキスポに行ってきました。アチェ全県の民芸品、北アチェ県の各役所のスタンドが出ています。人気だったのは「津波」スタンド。津波の写真が展示されています。わたしが気になったのは、漁業、農業関係のスタンドで、支援活動に役立つ情報を得られるかもしれないと思っていたのですが、西バクティア郡で発見された足が8本あるヤギの剥製とか、北アチェ県で獲れる魚(それも種類が少ない)があるくらいで、収穫はほとんどなし。
c0035102_10494826.jpg エキスポ会場のはじで、Rapa-iを叩いている人びとがいたので、むしろそちらに惹きつけられてしまいました。おじさんたちのなかには、8日のイベント用のAceh Kita財団のTシャツを着ている人もいます。8日に出会ったおじさんたちがわたしのことを覚えてくれていて、お腹と心臓に響くような音でRapa-iを叩きつづけてくれました。
 一緒にいた友人のひとりは、一度もRapa-iを見たことがなかったとか。和平になって、はじめて聞くことができたようです。
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by NINDJA | 2005-08-22 01:46 | NINDJAの救援活動
○「和平はヘルシンキの話」
 午前中、インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)が支援している軍事作戦で夫を殺害された女性たちが、子どもたちへの奨学金を受け取るため、我が家に集まってくれました。ちょうど日本から学生が2人、ロスマウェに到着したので、彼女たちの体験について話をしてもらい(『アチェの声―戦争・日常・津波』をご参照ください)、ヘルシンキでの和平合意調印について聞きました。
 西バクティア郡のある女性によれば、軍事戒厳令後に復活した夜警について、村長が「もう和平が結ばれたのでは?」と尋ねたところ、治安部隊に「和平はヘルシンキの話。現場は違う」と言われたそうです。2000年5月に結ばれた「人道的停戦合意」のときも、「和平はジュネーブの話。ここは違う」と言われたという女性の話を聞いたことがあります。同じことの繰り返しにならないか心配です。
 彼女たちの村々には、まだ国軍詰所も残っています。以前のように表立った作戦を展開することはなくなりましたが、合同諜報部隊(SGI)が送られているようです。諜報部員は私服のため、その活動が見えづらいだけに、女性たちは不安を募らせています。
 和平が結ばれたといっても、女性たちのトラウマが癒されたわけではありません。日本のODAで建設された天然ガス工場内の国軍キャンプに拘束された経験のある女性は、いまも車の音を聞いたり、国軍兵士の姿を見たりすると、心臓がドキドキするといいます。頭痛もひどく、どんな薬を飲んでも治りません。彼女の2度目の夫も、国軍兵士を見かけると、体が震え、力が抜けてしまうそうです。体験を話してくれるとき、それが90年ごろという「昔」の話でも、声を震わせ、涙を流す女性もいます。このような人びとのトラウマを、和平はどう解決してくれるのでしょうか。

○シャリア警察の検問
 女性たちとに奨学金を渡し、みなで昼食を食べたあと、市場に行きました。その帰り、不思議な制服を着ている集団を乗せた警察のトラックを見かけました。そのときはわからなかったのですが、シャリア(イスラーム法)警察でした。
 インドネシア政府は、アチェ問題解決の一策として、アチェにおいてイスラーム法を適用しました。軍事戒厳令以前には、それほど目立たなかったのですが、津波後にロスマウェに戻ってきて、ジルバブ(ムスリム女性のかぶるベール)をかぶっていない女性たちを捕まえ、軍分区の前に集めて説教するとか、賭博をしていた人びとを鞭打ち刑にするとか、シャリア警察の話を聞くことが多くなりました。
 市民団体からは、イスラーム法適用について、「アチェ=イスラーム原理主義」のイメージを植え付け、国際的な支援を受けられないようにする政府の戦略だという批判は以前からありましたし、鞭打ち刑がおこなわれたときには、なぜ汚職をしている州知事などが鞭打ち刑にならず、小さな民だけ対象となるのか、という憤りの声も出ています。
c0035102_1225649.jpg さて、このシャリア警察が検問をしているというので、バイクに乗って見物に行きました。外国人でムスリムでもないわたしは、もちろんジルバブをかぶっていません。警察、シャリア警察、さらには見物人たちが見えてきた、と思ったら、笛を鳴らされ、止まるよう命じられました。日本人であり、ムスリムでもないことを説明すると、「なにをしに来たのだ?」との質問。「見物に来た」と正直に答え、写真を撮らせてもらうよう頼みました。
 警察、シャリア警察ともに、男性たちは「そうか、そうか」と歓迎(?)してくれたのですが、シャリア局に勤める公務員女性が近寄ってきて「みんなジルバブをかぶらなくてはならない。敬意を表さねばならない」と言ってきます。イスラームはそんな偏狭なものではないはず、というのがわたしの持論。しかも、わたしの宗教まで問われ、すっかり気分を害してしまいました。
 見物を終えてから、アチェ人の友人たち(記者や活動家)に一斉に携帯メッセージを送りました。「鞭打ち刑にして、って頼めばよかったのに」という冗談から、「大丈夫か? なにかできることはあるか?」という心配してくれたもの、さらには「そうやって外国人をアチェにいづらくさせているにちがいない」という陰謀説まで、とりどりの返事。我が家でも大笑いでした。
 それにしても、国軍兵士が連れている女性たち(現地妻とか)は、ジルバブもかぶらず、サングラスに厚化粧で、洋服も体のラインの出るものを着ているのですが、シャリア警察は彼女たちを捕まえるのでしょうか。
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by NINDJA | 2005-08-21 01:24 | NINDJAの救援活動
○独立記念パレード
 昨日(17日)は、インドネシア共和国の60回目の独立記念日です。津波前のロスマウェ市、北アチェ県では、もっとも緊張する時期のひとつでした。わたしの経験だけでも、99年はゼネストで店は閉まり、人も車もなくゴーストタウンのようでしたし、2000年は友人のアチェ人人権活動家が北スマトラ州メダンで誘拐されたし、2001年はゼネストと知らずにバスで移動、身動きがとれなくなってバスで一晩過ごしたし、2002年は爆弾が爆発する音を聞きながら17日を迎えた、といった具合(2003年、2004年は戒厳令のためロスマウェ、北アチェ県には入れず)。隔世の感があります。
c0035102_1564563.jpg 昨日の式典につづき、今日はパレードがおこなわれていました。幼稚園生から高校生まで、アチェ民族衣装やウェディングドレス(なぜ?)などをまとい、ロスマウェの町を行進します。国軍兵士や警察官の制服を着用している子どもも多く、複雑な心境でした。わたしが、赤いベレー帽をかぶったチビッコ国軍兵士の写真を撮っていると、周囲の人びとが「コパスス(陸軍特殊部隊)だよ」。人びとは、どう思ってみているのでしょうか。
c0035102_1573173.jpg 昨日までの煙害もなく、今日はいい天気だったことが災いして、日射病・熱射病に倒れる子どもも多いようで、時折、救急車が走ります。ロスマウェの町は歩行者天国になり、屋台が並び、まるでお祭り。さて、ここにいる人びとのどれほどが「ひとつの国家、ひとつの民族、ひとつの言語」「多様性のなかの統一」なんていうことを考え、インドネシア民族としての誇りを噛み締めているか。おそらく、ほとんどの人が、和平合意が調印され、久しぶりに平和な雰囲気で、にぎやかなお祭りを楽しめてうれしいと思っているくらいではないかしら。

○スヌドン郡の塩づくり
 パレード見物はそこそこに、活動です。まずマタン・スリメン集落に交換したランプを届け、スヌドン郡へ向かいます。今日は自分の車がありますので、高速小型乗合自動車パンターで移動するよりは楽でしたが、やはり遠い。往復4時間の道のりです。アチェ人の友人たちは睡眠(もしくは果物を食べていた)。わたしは運転手です。
 今日訪れたのは、スヌドン郡でも塩づくりをおこなっているトゥピン・クユン、東ウレェ・ルベック、マタン・ラダ村です(5月1日の活動報告を参照)。
c0035102_158271.jpg トゥピン・クユン村では、プマタン(写真)修繕の支援を要請されました。これは塩水を溜め、濾過するもので、東ウレェ・ルベック村のもの(下の写真)とは異なり、地面より高くなっています。そのせいか、トゥピン・クユン村のほうが、白いきれいな塩ができます。プマタンの半分ほどは自力で修繕したそうですが、いまだに傾いたり、つぶれたりしたプマタンも多く、そのため修繕したプマタンの周辺に集中し、一人一人の塩田が狭くなっています。
c0035102_1592254.jpg 東ウレェ・ルベック村では、価格が低いときには塩を売らずにストックしておけるよう、資本を貸し付けて欲しいと要請されました。ただ現金を支援すると、さまざまな問題も発生しそうで、ほかの方法はないものか考えています(いいアイディアがあればお寄せください)。現在、塩の価格は1kg1200ルピア(約13円)と激安です。だいたい1日に15~20kgつくれます。スヌドン郡の場合、天日干しではなく、塩水を煮込んで塩をつくるのですが、その燃料となる薪がトラック1台12万ルピア。ビルン県では天日干しで塩をつくっているそうですが、ドラム缶1缶で3000ルピア程度とさらに安くなってしまいます。薪以外の燃料も難しいようです。たとえば炭だと火力が弱すぎるし、灯油やガスは高くて購入できないからです。
c0035102_20272.jpg わたしが訪れた3、5月の時点では、マタン・ラダ村の5世帯が、東ウレェ・ルベック村の塩田で塩づくりをしていましたが、いまは少し内陸に入ったところに移っていました。以前は塩がなかったのに、津波後ためしてみたら塩がとれるようになったらしいのです。もともと塩づくりをおこなっていた5世帯だけでなく、津波後、ほかに生計手段がなく、どうしていいかわからない約20世帯が塩づくりに参加するようになっていました。しかし塩水を煮込むための「台所」と呼ばれる掘っ立て小屋も、塩づくりに必要な器具もありません。野外で塩水を煮込むため雨の日は作業できませんし、器具も東ウレェ・ルベック村の人びとが津波以前からもっていたものを借り、1つを数世帯でつかいまわしている状態です。せめて、ほかの世帯に支援したような器具一式と、掘っ立て小屋の屋根を葺くルンビアの葉だけでも支援したいと考えています。
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by NINDJA | 2005-08-19 01:59 | NINDJAの救援活動
○アチェの車事情
 15日夜、サバン(ウェー島)からオートマ車が来ました。以前、友人のマニュアル車でタナ・パシール郡を運転した際、約15年ぶりのギアと、道路のあちらこちらにある穴と、さらにベチャ(三輪タクシー)やオートバイとに気をつけねばならず、ヘトヘトになり(乗っているほうは、もっと疲れたはず)、オートマ車が欲しいなぁと思っていたのでした。
 サバンは自由貿易港で、シンガポールから中古車が流れ込んでいて、インドネシアには珍しいオートマ車も手に入ります。ただし、プレートナンバーが「BL(アチェ)<4ケタの数字>NA」の関税のかからない安い中古車は、外にもちだせません。バンダ・アチェでは「NA」車を見かけますが、北スマトラ州メダンに出ることも多いロスマウェでは、メダンを意味する「BK」ではじまる車はありますが、「NA」車を見たことがありません。
 日本の中古車市場価格では考えられないほど高いインドネシアの中古車。これまで何年間も、インドネシアの銀行で少しずつ貯金していたのをはたいてしまったので、日本に戻ったら、がんばって稼がねばなりません…。

○マタン・スリメン集落の水問題
 というのはさておき、本日は、車を運転して、サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落まで行ってきました(5月4日、6月27日報告を参照)。
 5月に訪れた際、「ハンセンの村」として、クタ・クルン村のほかの人とともに、キャンプや仮設住宅に入ることを拒否された彼らは、サムドゥラ・パセー王国の女王ナリシャのお墓の前にある観光局所有の小屋で暮らしていました。
c0035102_18183732.jpg いまはセーブ・ザ・チルドレンが世帯別に建てた仮設住宅(竹で編んだ壁とルンビアの葉で葺いた屋根)があるのですが、電気がないために、昼だけ村に戻っているようです。人びとは、ヤシの葉を集めたり(写真)、TDH(ドイツ、オランダの財団)からの支援による住宅を建てたり、忙しく働いています。この住宅を建てるのに、2人がかりで40日かかります。それも材料がそろっていれば、の話。全員が新しい住宅で生活をはじめるには、まだ日数がかかりそうです。
 この集落では、電気も問題のひとつですが、なにより大きいのは水の問題です。これまでは国境なき医師団がサムドゥラ郡の被災村の水を担当していましたが、緊急段階が終わったと判断したのか、現在は撤退しています。撤退後に水が確保できるのかどうか判断したうえで、撤退してくれればいいのですが、大きな団体の場合、そう小回りもきかないのでしょうか。
 現在、人びとは、住宅建設でつかうセメントをつくるための水(つまり砂と混ぜる水)を飲んでいます。津波以前は川の水を飲んでいたそうです。わたしたちが西ランチャン村や、カンプン・ラマ村で簡易水道を設置したことを知っていて、同じようなものをつくってほしいと頼まれました。
 これまでの2カ村は、マンディ(水浴)、洗濯につかっており、飲料用ではありませんでした(飲料水は津波前も購入していたらしい)。マタン・スリメン集落の場合は飲料用ですから、仮に津波前も川の水を飲んでいたとしても、かなり濾過機能を強化したものにしなくてはなりません。水を汲み上げるポンプのための電気もきていませんので、発電機も必要になります(発電機用の灯油は、人びとが少しずつ出し合う)。
 井戸を掘れればいいのですが、ガスが出て失敗したという例が相次いでいます。さすが天然ガスの地です。本当かどうかわかりませんが、地震でプレートがずれ、地中で空洞ができ、そこにガスが充満しているという話もあります。
c0035102_18193016.jpg もうひとつ依頼されたのが、女性たちによる養鶏支援です。すでに鶏を飼う小屋が建てられはじめています。以前、クルン・マネ(ムアラ・バトゥ郡)でみたのより、ずっとずっと小さな小屋というより籠です(写真参照。ヤシの葉を集めているおじいちゃんともにハンセン病患者で、足首から先が変形し膿んでいました。が、薬はないのです!)。人びとの話では、ハンセンの村ということで、ほかの村とは隔絶し、離れたところにあるため、鶏が病気にかかりにくい(感染しにくい)ことから、養鶏に適しているとか。
 ところで、とくに子どもを対象にした支援に対し100万円のカンパをいただけることになったため、わたしたちの支援重点地域でのニーズ調査をはじめました。マタン・スリメン集落では、子どもの学用品が足りないようです。カバンをもらったが、小さすぎるか大きすぎるかで、スーパーでもらうようなビニール袋で学校に行っているとか、制服も1枚きりで、洗濯ができないとか。支援は、たいへんですが、細かいところまで気を配らないと…です。
c0035102_1820247.jpg 最後にランプの供与。とくに女性たちが、傷がないか厳しい目でチェックし、ランプを選んでいきます。彼女たちの眼鏡にかなわなかったランプは、帰りにお店に寄り、交換してもらってきました。また届けに行かねばなりません。

○西クアラ・クルト村の柵建設に障害?

 友人のひとりは、西クアラ・クルト村で子どものニーズ調査をおこないました。ゴザ編みのためのパンダンの木を囲う柵建設の最終確認も兼ねています。が、ここで障害が発生。土地のない女性たちがいることが判明したのです。この女性たちには別の生計手段の支援をおこなうつもりですが、そうすると柵を支援される女性たちから、自分たちも別の生計手段のほうがいいという声が出るかもしれません。
 友人によると、土地のある女性たちは柵で一致しており、土地のない女性たちに別の支援をおこなってほしいと言っているそうですが、それでものちのち問題にならないよう、再度会合をもったほうがいいという結論になりました。
 子どもたちについては、自転車の要請がありました。以前、すでに村に戻っている小学生に自転車の支援をしていますが、これに加えて、仮設住宅にいる小学生、村の中高生も自転車の支援を希望しているようです。マタン・スリメン集落と同じく「ハンセンの村」として、ほかの村から離れているため、たしかに学校に通うのはたいへんです。
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by NINDJA | 2005-08-17 18:21 | NINDJAの救援活動
 リアウ州の煙害がマレーシアで問題になっていますが、風の向きのせいか、ロスマウェも煙(雲)に覆われました。マレーシアから帰国したばかりの友人によれば、呼吸するのも困難で、学校も休校になったとか。ロスマウェはそこまで深刻ではありませんが、太陽が出ているのに、曇っているという不思議な天気になっています。
 さて、今日はアチェにとって歴史的な日でした。フィンランドのヘルシンキで、インドネシア政府と自由アチェ運動(GAM)の和平協定が調印されたのです。我が家でも、全員がテレビの前に集まり、生放送された調印の様子を見守りました。我が家に居候している女子大生(父親が国軍に殺害された)は、「3、2、1、ムルデカ(独立、自由、ここでは万歳くらいの意味)!」と歓声を上げています。
 16時40分から、ヒラク広場で共同祈願がおこなわれました。ロスマウェ市長、北アチェ県知事、リラワンサ軍分区司令官の挨拶のあと、ウラマーの説教と祈祷です。
c0035102_230028.jpg ヒラク広場は、村からトラックに乗ってきた人びとや、授業を終えてかけつけた高校生でいっぱいです。動員されたのであろう国軍兵士、警察官もいます。モスクと同じく、前方が男性、後方が女性と分けられているのが、わたしにとってはいささか残念ですが、このような催しがおこなわれ、人びとがともに祈っている姿を見られることは幸せでした。2002年12月に結ばれた停戦合意(敵対行為停止合意)の際は、もっと緊迫していましたし、こんな行事もありませんでした。
c0035102_2302110.jpg とはいえ、実際に和平が持続するかどうか、人びとはまだ確信をもてずにいます。各県で民兵が組織されていること、内陸部の国軍詰所も残っていること、そしてなにより前回の停戦合意の破綻の経験が、人びとに不信感を残しています。「GAMはすべての武器を差し出してはいけない。攻撃されたらどうするのだ」そんな声も聞かれます。
 GAMの「社会復帰」についても問題になっています。政府はGAM兵士に対して農地を用意するとしていますが、GAM兵士にすれば「自分たちは、もともと農民だし、土地ももともと自分たちのもの」という意識があります。GAM司令官の許可なくアチェ外へ逃亡した元兵士たちの処遇についても明らかではなく、紛争の火種となりそうです。人権侵害の犠牲者への補償、GAM支持者と非難され収監された人びとの名誉回復など、多くの問題が残っています。
 わたし自身は、アチェの友人たちに、仮にインドネシア国軍が合意違反をしても、いまはとにかく自制するよう、それぞれ知り合いのGAMメンバーに伝えて欲しいとお願いしているのですが、現場に近くなればなるほど、感情的に納得してもらえない部分があるように思います。GAM指導部は独立要求の取り下げを明らかにしましたが、果たして現場レベルで受け入れられているのかも疑問です。
 30年つづいた紛争が、一気に解決するわけはなく、今後も試行錯誤を繰り返すのでしょうが、少しずつでも平和への道を歩んで欲しいものです。
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by NINDJA | 2005-08-16 02:28 | NINDJAの救援活動
 昨日、マタン・スリメン集落にランプを届ける予定でしたが、こちらの友人の体調が悪くなってしまい、ランプを購入するにとどまりました。明日か明後日に届けることになります。
 さて、今日はシャムタリラ・バユ郡ランチョッ村の人びとの避難民キャンプで、明日の和平合意調印に向けて、和平祈願のイベントがありました。ロスマウェ、北アチェ県のNGOが合同で開いたものです。はじめて、少し遠くまでバイクを運転しました。なんとなく景色も違ってみえます。
c0035102_1751354.jpg ランチョッ村の人びとは、地震・津波から8カ月近い現在も、避難民キャンプでの生活を強いられています。なかにはルンビアの葉で屋根を葺いた掘っ立て小屋も建っていますが、ほとんどがテント生活です。朝8時ごろ、女性たちはキャンプで洗濯に励んでいました。
c0035102_1753889.jpg イベントの開かれる舞台上では女の子たちが集まって、詩を詠みあげる練習をしています。その横で、男の子たちが自動小銃のおもちゃをもって遊んでいます。先ほど観たテレビのアチェ特集で、アチェの子どもたちは、もっとも暴力に対面していると言っても過言ではなく、そのために怒りやすい、親との関係を築けない、などの影響が出ていると、心理学者が言っていました。
c0035102_1761140.jpg 先日、支援したマイク、スピーカー、アンプのセット(86万5000ルピア)を設置し、9時半すぎ、いよいよイベントの開始です。太鼓とスルネカレー(笛)の演奏がオープニングを飾り、その後、女の子たちの踊りです。おそらく、本来は、金色の器にピナンを入れて踊り、最後にピナンを客に配るというものだと思うのですが(2000年にバンダ・アチェで開かれたNGO会議ではそうだった)、子どもだからなのか、器には花びらが入れられていました。c0035102_176356.jpg器がなく、プラスチックのお椀をもっている女の子もいます。
 その後、女の子2人、さらに飛び入りで男の子が詩を詠みました。アチェの子どもは、非常に「芸達者」です。詩を詠むのも、身振り手振り交え、本当に感情を込めています。津波のこと、避難キャンプ生活で苦しいことを詠います。
c0035102_176555.jpg 最後にNGOが和平支援の声明を読み上げ、みんなで祈りを捧げて、イベントは終了しました。
 7月末にジャカルタで開かれたセミナーでも、和平と復興は切り離せるものではなく、和平なくして復興はないということが強調されました。わたし自身の体験でも、避難民がキャンプや仮設住宅近くの海兵隊ポストにおびえたり、支援物資を治安部隊に横領されたりするケースは少なくありません。c0035102_177148.jpg30年の紛争で苦しんできた人びとが、さらに津波に遭い、いま生活を再建しようとしています。彼らの重荷が少しでも軽くなるよう、早く平和が訪れて欲しいと思います。
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by NINDJA | 2005-08-14 17:10 | NINDJAの救援活動
 今日は金曜日で、午後、男性陣はモスクに行かなくてはならない日です。アチェでは、問題解決の一策として、イスラーム法が適用されています。が、実際には、問題解決というより、新たな問題を生み出しているようです。たとえば 6月末、ビルン県で、賭博をした人が鞭打ち刑になりました。このときは、市民活動をおこなっている人びとを中心に、「なぜ汚職をした州知事が鞭打ち刑にならず、小さな民だけに適用されるのだ?」と批判ごうごうでした。
 さらにシャリア警察なるものが出現、女性の服装をチェックし、イスラーム法にのっとっていないと判断されると、身分証明書をチェックされたり、先日は軍分区の前に集められたりしたようです。バンダ・アチェの友人によれば、ジルバブ(ムスリム女性がかぶるベール)をかぶっていない女性に対し、ジルバブが配られたそうですが、カネも要求されたとか。いっぽうで、国軍兵士とつきあっている女性たちが、厚化粧、サングラス、ジルバブなしで平気で歩いているのだから、別にジルバブをかぶるべきとは思いませんが、不公正だとは思うのです。
 そんなわけで、本日は現場に行くのはお休み。北アチェ県警察(ロスマウェ市警察でもある。もともとロスマウェは北アチェ県庁所在地だったのが、市に昇格した)に運転免許証をつくりにいってきました。
 警察横のコピー屋でパスポートのコピーをしていたら、ロスマウェの市場で発砲事件があったといううわさが流れてきました。ヤシの実を売っていた男性が、国軍兵士をパラン(山刀)で斬り、ほかの国軍兵士に撃たれたというのです。どうも国軍兵士が、カネを払おうとしなかったことが原因のようです。ここにいると、とにかくなにかしらの事件の情報が、口伝えに、すごい勢いで広まります。住民の情報網はすごい!
 コピーのあと、屋台でコーヒーを飲んでから、外国人をあつかう諜報部門に出頭。「IDをもっているか」「州警察に出頭したか」などとうるさいので、「バンダ・アチェには行っていないから、州警察に出頭できない。NGOとして、ずっと滞在しているわけでなく、行ったり来たりだから、ほかとは手続きが違う。だからロスマウェ市長と北アチェ県知事の推薦状をもらった」と丸め込み、運転免許担当官への手紙をつくってもらいました。手紙への「謝礼」を払おうという姿勢をみせると、「わたしたちは、何も受け取りません。これが、わたしたちの仕事ですから」とのこと。この人物は、3月に連れてきた学生たちに対し、出頭証明証なるものをつくり、さらに学生たちを警察に連れて行ったアチェ人の友人に、 1人あたり5万ルピア(記憶によれば)要求しています。ウソつきだなぁと、心のなかで笑ってしまいました。
 その後、運転免許担当官のところに行き、所定の金額を払い、写真を撮って、その場で二輪用免許(SIM A)、オートバイ用免許(SIM C)が発行されました。実は、こうすんなりいくと思っていなかったため、昨日、ロスマウェ市長にSMS(携帯ショートメッセージ)を送っていました。ロスマウェ市長は、いまジャカルタで和平合意について政治・法・治安担当調整相との会議に参加しており、13日にロスマウェに戻ったら、県警察署長と調整すると返事をくれていました。免
許を取れた報告をすると、昨日のうちに県警署長にも連絡を入れていてくれたとのこと。ひどく身軽な市長です。
 車で移動するというのは、かなりエラそうだと思うのですが、一番遠いスヌドン郡の場合、パンター(高速小型乗合自動車)で2時間、さらにRBT(オジェック、オートバイタクシー)で数十分かけて移動しなくてはならず、帰りのパンターは熟睡の場となります。帰宅してからも、もはや仕事をする体力はなく、バタンキューになってしまうので、遠くの現場に行くときは車があると便利だなぁとつねづね思っていました。
 金曜礼拝終了後、シャムタリラ・バユ郡ランチョッ村の避難民が来ました。仮設住宅も元の村での住宅も、どうなっているのかよくわからない村です。いまだにメダン=バンダ・アチェ幹線道路沿いのキャンプで生活しています。実は、14日、このキャンプで和平祈願行動がおこなわれます。キャンプの子どもたちが詩を詠むほか、スルネカレーの演奏、ロスマウェのNGOによる共同声明の読み上げなどが主な内容。もともとランチョッ村の避難民から、マイク、スピーカー、アンプのセット(86万5000ルピア)の支援を要請されていたのですが、14日に間に合ったほうがいいだろうということで、本日、購入し供与しました。
 明日は、マタン・スリメン集落に行く予定です。ここからは、コーランを詠むための施設につける電灯の支援を要請されています。明日、ロスマウェの市場で購入したのち、集落まで届けることになりました。
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by NINDJA | 2005-08-13 01:52 | NINDJAの救援活動