2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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カテゴリ:NINDJAの救援活動( 73 )

 今日は、タナ・パシール郡西クアラ・クルト村に行ってきました。7月11日の活動報告で流したとおり、女性たちがゴザ編みのために、パンダンの木を植え、それを柵で囲う支援を望んでいるため、事前調査に行ったのです。
 ムナサ(集会施設兼祈祷所)には、女性たちが20人ほど集まり、柵をつくるために何が必要か、パンダンの苗木は何本植えるか話し合いました。まだ元の村に戻ってきていない人たちもいるのですが、彼女たちも含めて46人(つまり全世帯)に対し、以下の支援をすることになりました。
c0035102_18525867.jpg・竹(30本)
・釘(2.5インチ、5kg)
・のこぎり
・金槌
・鍬
・苗木(50本)
 あとは女性たちが、自分で柵をつくります。しかし、どうも男性陣は心配らしく、横から口を出したがります。みんなから「男は黙って」「なんで女の会議に男がいるのよ」とからかわれていました。

 前にもお伝えしたように、この村は「ハンセンの村」です。
 5月6日の活動報告でご紹介したマルズキさんには、すでに義足を供与しました。5月6日、村を訪れたとき、マルズキさんの息子が漁に出ていて腕を怪我しました。その怪我が治らず、バンダ・アチェで治療を受けることになりました。治療費は無料なのですが、交通費・食費は自腹。もちろんマルズキさんには、そんなおカネはありませんので、50万ルピアをカンパしていました。マルズキさんは、まだ村に戻っていないため、義足の調子などは確認できませんでした。
 同じくハンセン病患者のM・ユスフ・ジュロンさん。子どもはできなかったのですが、お姉さんの子どもを養子にしていました。どうしても子どもが欲しかったのだそうです。学校に行かせ、自分の子どもとして育てていたのですが、そのうち2人を津波で失いました。1人は、まだ遺体が見つからないそうです。
 このような人びとへの支援は、残念ながら、ほとんどありません。WHOからの医療支援があったそうですが、紛争が激化したことでストップしています。ハンセン病患者への薬も用意されているはずのですが、タナ・パシール郡長が「薬はない」と言いつづけているようです。ちなみにタナ・パシール郡長は、今回の津波支援についても、とかく評判の悪い人です。保健所に行っても、薬はないと言われ、ここ7カ月間何も飲んでいないという女性もいます。彼女の足の裏は膿みはじめています。
 津波被災者への生活保障も、この間2回だけ。ハンセン病患者への生活支援も遅れがち。さらに、ほかの村の被災者から、ハンセンだということで差別されています。そこで重度のハンセン病患者18人について、何らかの支援をおこなっていきたいと考えています。これまで飲んでいた薬の名前から、いま必要としているものまでをリストにしてもらうようお願いしました。
 もはや、どこに支援を求めたらいいのかわからない人びとは、何度も足を運ぶわたしたちに期待しているのですが、わたしたちができることも限られています。みなさまからお寄せいただいたカンパが尽きたあとはどうなるのでしょうか。もちろん、何とか生活を立てていく力をもっていると確信していますが…。なんとか、いままでにお寄せいただいたカンパで、彼らが少しでも楽に生計を立てられるように考えねばなりません。
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by NINDJA | 2005-08-11 18:52 | NINDJAの救援活動
 インドネシア政府と自由アチェ運動(GAM)の和平合意が調印される予定の8月15日の1週間前になりました。各地でアチェ和平を望む催し物が開かれています。今日は、アチェに関するニュースをサイトと雑誌で発信しているAceh Kitaなどが主催となって、Rapa-i Pase "Uroe Taloe Rod"がおこなわれました。
 Rapa-iというのは、一般的にtuwalangという木とヤギか牛の皮でつくられた太鼓を指します。Rapa-iの名は、この楽器を生み出したAhmad Rifa'iから来るそうです。そもそもRapa-iは、バグダッド出身のイスラーム詩人Syekh Abdul Kadir Djailaniが紹介、アチェでイスラーム詩を朗詠する際に用いたそうです。Paseは、北アチェ県の西はパセ川から東はジャンボ・アイェまでの地域を指し、Rapa-i発祥の地でもあります。
 "Uroe Taloe Rod"は、8日の0時、バンダ・アチェを出発し、北海岸(マラッカ海峡沿い)を東アチェ県プルラックまで行き、再び北アチェ県パントン・ラブに戻って8日の24時に終了するというイベントでした。食事と祈祷の時間以外、ひたすらRapa-iを叩きつづけるのです。
c0035102_86898.jpg ロスマウェには11時に到着とのことでしたので、ロスマウェから主催者の車に乗せてもらい、最後まで参加することになりました。が、いつになってもロスマウェに到着する気配がありません。ビルン県にいるということなので、こちらから出迎えに行くことにしました。
 13時ごろ、マタンで隊列と落ち合えました。Rapa-iのトラックが13台、アチェの笛Seurune Kaleのトラックが1台、さらに救急車、休憩する人用のバス、主催者の車、報道陣の車…と何十台もの隊列です。夜はともかく炎天下では、かなり体力を消耗するはず。しかし、おじさん、おじいさんたちは、「平和になってほしい」という思いを込めて、Rapa-iを叩きつづけます。
 幹線道路沿いには人びとが集まり、行進を見守っています。なかには思わず、一緒に Rapa-iを叩く真似をして、片手でオートバイを運転するおじさん、「Rapa-i、 Rapa-i」と声をそろえて呼びかける子どもたちもいます。
 津波前のアチェでは、こんな風景を想像できませんでした。わたしが知っているは、チェックポイントがつづき、ジグザグ走行を迫られたり、いつ一斉検問があるかとおびえたりする幹線道路です。バスで移動していても、国軍兵士から自動小銃で狙われたこともありました。いまは、Rapa-iの隊列に向かって、手を振る兵士もいるのです! 津波だけが、こういう「平和な」アチェをもたらしたのかと思うと、なんとも言えない気分ですが、それでも感無量で、思わず涙してし
まいました。
c0035102_864441.jpg 北アチェ県とロスマウェ市の境では、ロスマウェ市政府が用意したRapa-iのグループに迎えられ、さらにロスマウェ市の町ではマルズキ市長らによる歓迎式典も催されました。式典終了後、握手を求められていた市長が、見物していたわたしに気づき、いきなり呼ばれたのにはビックリでした。
c0035102_871456.jpg 再び出発したのは17時すぎ。すでに6時間も遅れています。閉会式がおこなわれる予定のパントン・ラブ(13時到着予定)に着いたのは21時ごろ。ここから本来なら、東アチェ県プルラック(19時到着予定)まで行き、もう一度パントン・ラブに戻ってくるはずだったのですが、とても閉会式には間に合いそうにありません。そこでRapa-iの隊列はプルラックに向かい、同時並行でパントン・ラブ閉会式をおこなうことになりました。
 パントン・ラブの分軍支部(Koramil)広場には、すでに数万人(?)の人びとが集まっていました。舞台を子どもたちが囲むようにして座り、その周りに大人たちが立っています。みな、アチェで大人気の歌手Raflyを待っているのです。
 前座でパントン・ラブ出身のグループが2曲歌い、ジャカルタに住むアチェ人詩人が平和祈願の詩を読み上げ(熱演だった!)、さらにアチェ語漫才(ほとんど意味がわからなかったけれども、なんだかおかしかった)。そのたびに司会者が「Raflyは、わたしたちのところにいます。が、その前に…」とアナウンス。否が応でも Raflyへの期待が高まります。
c0035102_88818.jpg RaflyのグループKandeが現れたときには、みな少しでも前に出ようと押し合いへし合い。わたしも、はじめてRaflyを見られることに、けっこうドキドキしました。Raflyに会うというので、胸をときめかせる(?)日本人は、わたしくらいでしょう(そもそも、Raflyを知っている人がいるのだろうか)。
 ビデオCDで見ていたのと同じRaflyが登場し、歌いはじめると、子どもたちも声をそろえます。なかには体をゆすっている、乗り乗りの子どももいて、将来が楽しみというか、思いやられるというか。ついでに、Raflyがあまり有名でない歌を歌うと、子どもたちは帰ろうと、いっせいに立ち上がります。そうすると Raflyは人気の曲を歌い、子どもたちもまた座るわけです。舞台と客席(席はないが)で、妙に一体感のあるコンサートでした。
c0035102_895617.jpg 途中で、北アチェ県知事タルミジ・カリムの挨拶。これを最後にもってくると、たぶんほとんどの人が帰ってしまうので、Raflyは舞台に残ります(あとでわかりましたが、もっとも人気の曲も残していました)。うわさには聞いていましたが、タルミジのあいさつには、「イスラーム用語」が散りばめられていて、なんとなく説教くさい。
 それでも、ロスマウェ市長といい、北アチェ県知事といい、こうしてAceh Kita主催の和平祈願イベントを支援するのですから、2002年12月に「敵対行為停止合意(CoHA)」が結ばれたときと大違いです。GAMが独立要求取り下げを明白にしたのだから当然かもしれませんが、いっぽうで国軍や国会からは和平協議に否定的な声もありますし、民兵も結成されていますので、地方首長の和平支援には意味があるのではないでしょうか。
 イベントの終了は12時すぎ、帰宅は2時すぎでした。こうして夜に出歩けるのも、津波後のことです。
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by NINDJA | 2005-08-10 08:10 | NINDJAの救援活動
 8月4日、北スマトラ州メダンからバスで、ロスマウェ入りしました。飛行機で行けば35万ルピア(1円=87ルピア)、45分の距離ですが、バスだと4万ルピア、8時間かかります。とはいえ、アチェ行きのバスの出るメダンのガジャ・マダ通りに着くや否や、アチェ語しか聞こえてこない雰囲気が、「アチェに戻ってきた」と実感させてくれて、なんとも幸せな気分になります。ロスマウェ到着は夜中の1時半。皮肉なことですが、こんな時間でも移動できるようになったのは、津波の「おかげ」です。
 8月5日、6日は、この間の活動報告やら、借家の賃貸契約の更新やらに追われました。ちなみにロスマウェで借りている家の家賃は1年に500万ルピア。津波後、国際機関や外国NGOがなだれ込んだことで、家賃が月に2000万ルピアだの5000万ルピアだのになったバンダ・アチェと比べると格安です。もっとも、この家を借りたのは5年前で、ずっとこの値段のまま賃貸契約を更新しているために、家主は「年に1500万ルピアで借りるという人もいるのに」と渋い顔ですが。

c0035102_4574051.jpg 本日7日から、本格的に(?)活動を開始しました。今日は、スヌドン郡マタン・パニャン村にて、漁具の供与です。

マタン・パニャン村
ブベェ8人(各15個)/クラプ用魚網 12人

ムナサ・サゴ村
ブベェ13人(同上)/カドラ用魚網12人/カカップ用魚網1人/サウォッ・シラン4人/クラプ用魚網13人/アポロ(エビ)魚網2人

ロッ・プウク村
ブベェ8人(同上)/クラプ用魚網13人/カドラ用魚網15人

 ちなみに、これまでに漁具や塩づくり器具を提供した人数を計算したら、1721人になっていました。津波から7カ月たちますが、いまだに生活再建支援はほとんどありません。漁船の供与というのはよく聞きますが、下請け、下請け…の結果、製作費が激減し、つかえない漁船が供与されたとか、パンリマ・ラウット(海の慣習法長)にカネを払わないと漁船をもらえないとか、村長が漁民でない住民の身分証明書を集めて漁船を独占したとか、悪いうわさもついてまわっています。
 スヌドン郡の被災者たちは、一部が仮設住宅に入居し、足りなかった分は、住民が元の村に戻って掘っ立て小屋を建てています。スヌドン郡の場合、チョッ・パティサに仮設住宅が建てられ、マタン・パニャン、ムナサ・サゴ、ロッ・プウク、ウレェ・ルベック、マタン・プントン村の住民が入居しました。この5カ村が、住民いわく「仮設住宅(バラック)村」をつくり、村長、トゥンク(イスラーム指導者)など定めたようです。
c0035102_4581810.jpg 元の村に戻ってきた被災者の一人は、少しでも子どもたちが勉強し、遊べる場が必要だということで、自分の家の庭にテントを張り、幼稚園を開いていました。いまは45人の子どもたちが、無料で、ここに集まっています。遊び道具はビー玉、輪ゴムでつくった縄跳びのみ。天井も床も、避難民キャンプでつかっていたビニールシートですが、それでも子どもたちが集まれる場があるというのは大事なのだろうと思いました。
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by NINDJA | 2005-08-08 04:57 | NINDJAの救援活動
○西クアラ・クルト村の状況(6月12日、24日に送られてきた報告を翻訳)

 タナ・パシール郡西クアラ・クルト村の49世帯のうち21世帯はすでに元の村に戻りました。残りは、マタン・ウリム村の仮設住宅で生活しています。元の村に戻った住民のうち 15世帯は「セーブ・ザ・チルドレン」から家(5×6メートル)を支援されました。仮設住宅で暮らす住民は、村に戻るにはトラウマを抱えており、支援を受けていません。

c0035102_0171431.jpg 5月15日、西クアラ・クルト村の住民に蚊帳と漁網を供与しました。その際、人びとから、サムドゥラ郡ブラン・ニボン村から西クアラ・クルト村への道路に穴が開いたため、修繕するための石・土を支援して欲しいと頼まれました。この穴があると国境なき医師団の飲料水支援トラックが村まで入りたがらないのです。
c0035102_0172465.jpg この穴は、セーブ・ザ・チルドレンが言え建設用の資材を運ぶときにできたものなので、セーブ・ザ・チルドレンに修繕を要請したそうですが、すでに家を支援したという理由で拒否されてしまったそうです。人びとが飲料水を得るためにも、道路修繕は必要だと判断し、5月25日、トラック1台分の石・土(29万ルピア)を支援しました。人びとは、すぐに協力して、道路の穴を埋めました。

c0035102_0173651.jpg 5月29日、小学1~5年生に、ジョンソン製の自転車7台(1台27万ルピア)を供与しました。津波で子どもたちの自転車が流されてしまい、3km離れたブラン・ニボン村の小学校まで歩いて通わなくてはならなくなってしまったためです。ジョンソン製を選んだのは、手入れがしやすく、あらゆる年齢層の人がつかえるためです。供与に際しては、子どもたちが自転車屋で、自分の好きな色を選べるようにしました。

c0035102_0175823.jpg 人びとは、政府から18艘の漁船の支援も受けました。しかし漁網(120万ルピア)の支援がなかったため、まだ漁に出られずにいます。わたしたちが支援したジャラやカドラ(魚の種類)を獲る網をつかって、子どものお小遣いや生活費を稼いでいます。

c0035102_0174875.jpg ゴザ編みをおこなっていた女性たちが、支援を望んでいます。ゴザの材料になるパンダンの木は植えてから1年たって、はじめてゴザを編めるまで育ちます。木は、ヤギを防ぐため、柵で囲わなくてはなりません。女性たちは、この柵をつくる資金の支援を要請しています。写真にある2つのモチーフが、津波後も生き残ったもので、女性たちは、これを再生させることを強く希望しています。
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by NINDJA | 2005-07-11 00:18 | NINDJAの救援活動
(6月2日に送られてきた報告を翻訳)

○スヌドン郡の状況
 東ウレェ・ルベック村では、ほとんどすべての台所(注:塩水を煮込む掘っ立て小屋)で塩づくりがおこなわれるようになりました。みんな、塩づくりの器具の支援に、とても感謝しています。ほかの人から器具を借りないで済むようになったからです。
 トゥピン・クユン村では、(器具のほか)台所の屋根用にルンビアの葉を支援したあと、人びとは台所を建設しています。

○サムドゥラ郡の状況
<クルン・マテェ村>
 クラペ(魚の種類)を獲る漁網、サウォッ・サベェ、アンコイの支援を受け、人びとは、 2週間前(5月半ば)から漁をはじめています。1日2万5000から 3万5000ルピア稼げています。住民のほとんどは、まだ仮設住宅で暮らしています。

<ブラン・ニボン村>
 サウォッ・サベェ、サウォッ・シランの支援を受けた人びとは、ほぼ毎日2万から 3万ルピア稼げています。誰も仮設住宅で暮らしていません。

<マタン・ウリム村>
 サウォッ・サベェ、ジャラの支援を受けた人びとは、やはり少し息をつけるようになりました。サウォッ・サベェの支援を受けた人は、1日1万5000から2万ルピア稼いでいます。ジャラの支援を受けた人は、いまは川や海岸沿いでクラペ(魚の種類)を獲っています。日々、家で食べるほか、8000から1万ルピアの稼ぎにつながります。これはプウク村やサワン村でも同じ状況です。

<西ランチャン村>
 設置した水道は、いまも十分機能しています。人びとは朝も、昼も、夕方も、この水をつかってマンディ(水浴)し、洗濯をしています。支援した31のジャラも、子どものおこづかいを稼ぐのに役立っています。人びとは、養殖池近くの川で魚を獲っています。
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by NINDJA | 2005-07-10 16:31 | NINDJAの救援活動
○マタン・バル村について(5月18日に送られてきた報告を翻訳)

 4月6日におこなったモニタリングでは、北アチェ県タナ・パシール郡マタン・バル村の人びとは、北アチェ県知事の許可を得て、元の村に戻り、掘っ立て小屋を建てはじめています。彼らは、安全だと思う場所に、自由に家を建てています。なかには雨季にそなえて、竹の掘っ立て小屋を建てている人もいます。
 5月17日まで、マタン・バル村の人びとは、2回目の生活保障を受けていません。また、まだ波が荒いため、漁師たちは漁に出られずにいます。
 マタン・バル村へのサウォッ支援(サウォッ・シラン60、サウォッ・サベェ8)で、村の責任者を務めてくれたタルミジさんは、少し困った立場に立たされてしまいました。サウォッ支援について自分を通さなかったとして、パンリマ・ラウット(海の慣習法指導者)が怒り、漁民への支援があっても、タルミジさんには配らないそうです。

<国民信託党からの漁船支援>
 マタン・バル村には、国民信託党(PAN)から3艘の漁船の支援があり、操業がはじまりました。ハルカットとよばれる収穫を分配するシステムがとられます。この漁船では主にエビ、ときに魚を獲ります。朝6時から12時まで漁に出ます。
 収穫の分配は以下のようにおこなわれます。1艘の漁船に2人が乗り、だいたい6万から10万ルピア、多いときには20万ルピアもの収穫があります。それを
・ガソリン代 1万5000ルピア
・労賃 5万ルピア×2人
・残り パワン・ラウット(漁船ごとの責任者)
で分けます。漁船を管理するパワンは、この残りを貯めていき、漁船代に達したら、漁船はパワンの所有物になります。だいたい3年間で漁船代をまかなえそうです。人びとは、あまりこの支援に関心をそそられていません。

<赤ん坊が死亡>
 4月、3カ月の赤ん坊スフィが高熱にかかり、父親ルスリ・アブドゥラがチュッ・ムティア病院に連れて行きましたが、お医者さんには診てもらえませんでした。看護士が看ましたが、ルスリは耐えられなくなり、2日後に村に赤ん坊に連れて帰ったのでした。ルスリは、村の伝統的な薬を与えたようですが、赤ん坊は亡くなりました。

<仮設住宅>
 マタン・バル村の世帯数は305です(以前のデータでは117世帯となっていましたが)。仮設住宅の数は240で、うち30はクアラ・チャンコイ村の避難民に与えられました。
 仮設住宅は以下のような状況です。
・トイレあり
・井戸あり(ただし塩水)
・国境なき医師団からの飲料水の支援あり
・海外の支援による医薬品は十分である
・水田地帯に建設されたため、雨が降ると、仮設住宅への道はぬかるみ、水が仮設住宅の下まであふれる
・雨のときは、トイレもあふれる
・元の村に戻った住民は約50世帯

<海兵隊による暴力>
 津波前、マタン・バル村には、海兵隊第7部隊のポスト(詰所)があり、漁に出る人は全員、海兵隊ポストに出頭する義務がありました。
 津波の約1カ月前、漁師のアブドゥラ・ラマン(45歳)が、海兵隊員によって射殺されました。アブドゥラは、海のほうから来た自由アチェ運動(GAM)メンバー3人をかくまっていたのです。海兵隊が朝、捜索作戦をおこなったとき、アブドゥラは家の捜索をさせませんでした。海兵隊員は窓から家を覗いたとき、このGAMメンバーが窓から武器を突き出し、海兵隊員の頭を殴りました。3人のGAMメンバーは北のほうに逃げ切り、海のほうに逃げたアブドゥラは射殺されました。
 津波後、海兵隊第7部隊は、ムナサ(村の祈祷所、集会施設)にポストを建てました。12人が駐屯しています。
 5月4日23時ごろ、仮設住宅の夜警所で夜警をしていた住民が、海兵隊員に殴られるという事件が起きました。毎晩12人が夜警しなくてはなりません。23時、海兵隊員が夜警の監視に来たとき、たまたま一部の人間がコーヒー屋台にいて、夜警所には5人しかいませんでした。この5人は一列に並ばされ、いろいろなことを質問され、平手打ちされたのです。
 アミル(25歳)は、平手打ちで唇にケガをしました。ほかの4人の状況はわかりません。人びとはトラウマを抱えていて、ほかの人びとの生命の安全を脅かすようなことについて、互いに気にしていられなくなっています(人びとは口をつぐんでいます)。
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by NINDJA | 2005-07-06 12:24 | NINDJAの救援活動
 ロスマウェの友人たちからは連絡が来ていたのにもかかわらず、長らく活動報告をアップできずにおりました。申し訳ありません。今日から、少しずつアップしていきます。

○マタン・スリメン集落について(5月17日、6月1日に送られてきた報告より)
c0035102_22553379.jpg<JPS>
 5月4日の活動報告でお伝えした、無償で治療を受けられるための「JPS」という書類ですが、5月17日には全員分取得できていることが確認できました。JPS取得にかかる費用として50万ルピア渡していたのですが、あまりが出たため、病院では入手できず、購入しなくてはならない薬の購入にあてたそうです。c0035102_22554539.jpg<家>
 ハンセン病の村だということで、ほかの被災者からも差別されているマタン・スリメン集落の人びとにとっての最大の懸案事項は、家の問題です。
 5月はじめ、仮設住宅にも入れず、墓地の前でテント生活をしている人びとに、ルンビアの葉でつくった屋根を支援しました。
 現在、ACHという団体がオランダからの支援を受け、元の場所に彼らの家を建設することになりました。海から近いのですが、人びとも、ほかに行く場所がないということで納得せざるを得なかったようです。
 すでに集落に戻り、掘っ立て小屋を建てている人びとも出ているとか。彼らが集落に戻る際は、わたしたちが支援したルンビアの葉ももっていってくれるとのことでした。
<漁業>
 支援した漁具「サウォッ・シラン」をつかって、大きなエビを獲れるようになっており、1日4万ルピア稼げることもあるそうです。

○カンプン・ラマ村について(5月17日、6月1日に送られてきた報告より)
c0035102_2352065.jpg<水道>
 5月14日の活動報告で流した水道設置工事がはじまりました。写真は、3つ設置される貯水槽の1つになります。6月1日時点で、すでに2つの貯水槽が完成し、水が流れるようになったようです。
<漁業>
 42の「サウォッ・サベェ」、11の「サウォッ・シラン」を支援しましたが、それもすべて完成しました。村のほとんどの人が元の村に戻り、生活を再開しているそうです。マタン・ウリム村にある仮設住宅に残っているのは一部だとか。
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by NINDJA | 2005-06-27 22:54 | NINDJAの救援活動
○カンプン・ラマ村に水道設置
c0035102_31726100.jpg 本日(14日)、サムドゥラ郡カンプン・ラマ村に水道を設置するための資金1063万7500ルピア(1円=約89ルピア)を送金しました。
 カンプン・ラマ村も、西ランチャン村と同じく、塩水しか出ないため、被災者から水道の設置を要請されていました。西ランチャン村の場合は、村自体が狭かったこと、近くの川の流れもゆるやかで、川に近い地域の人びとは、川の水を汲みにいけたため、貯水槽を2つしか設置しませんでした。しかし、カンプン・ラマ村の場合は、西ランチャン村より規模も大きく、近くの川の流れも速く、自分たちで川の水を汲むのは厳しいため、300メートルおきに、3つの貯水槽を設置することになります。
c0035102_3165859.jpg すでにレンガ、セメントなどの買い付けは終わっているようです。8月の夏休みの時期に、津波後、第4回目のアチェ訪問を予定していますが、そのときには西ランチャン村のように、人びとが水道をつかっている様子を見るのが楽しみです。
 
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by NINDJA | 2005-05-15 03:08 | NINDJAの救援活動
○クアラ・チャンコイ村を訪問

 今日が最後の日になります。この間、日本に戻っても、すぐアチェに戻る予定があったのですが、次回来られるのは夏休み。はるか先です。軍事戒厳令のときのトラウマが強く、いつアチェに戻れなくなるか不安でたまりません。午前中は、友人たちとこれまでの活動について、村ごとに確認、見直しました。
 午後、北アチェ県・ロスマウェ市は大雨です。ただ前から予定していましたし、最終日でもあるので、タナ・パシール郡クアラ・チャンコイ村を訪問しました。女性がプカット・ソロンする珍しい村です。
c0035102_4282735.jpg タナ・パシール郡の場合も、人びとは仮設住宅を拒否していたのですが、ドイツの団体から、元の村に家を支援されることが決まり、一時的にマタン・トゥノン村の仮設住宅に移動しました。しかしクアラ・チャンコイ村の人びとは、仮設住宅が足りず、くじ引きをしなくてはなりませんでした。くじに外れた人びとが、村に戻って、掘っ立て小屋を建てて生活をはじめています。ただ、ほかの村々と違って、ロスコン郡に避難していたためなのか、家の支援を受けられる予定はないとか。
 この間、北アチェ県・ロスマウェ市の海岸地域を東から西まで支援しましたが、援助が集中している地域と、そうでない地域との格差を感じます。たとえば漁船や家など、額の大きな支援の場合、とくに全体に網羅されていないようです。
 いまは西風の季節で、エビ漁(プカット・ソロン)からの収入は少なくなっています。ただ、わたしたちの支援のなかで、ジャラ(投網)を選択した人たちは、いまも川で魚を獲ることができているようです。今回、さらにサウォッ・シラン(プカット・ソロン用漁具)、ジャラの追加支援を要請されました。

○西バクティア郡を訪問

 クアラ・チャンコイ村でマンゴをもらって(いつも被災者からエビだのカニだのイカだのマンゴだの渡されるのです!)、西バクティア郡に向かいました。
 クアラ・チャンコイ村はタナ・パシール郡でも東にあり、西バクティア郡と川を挟んで隣り合っています。村から村に直接行くのがもっとも早いのですが、3月末には、途中で海兵隊に止められ、通行を許されませんでした(いわく武力衝突があったとか)。そのため、クアラ・チャンコイ村から一度幹線道路に戻り、また幹線道路から1時間ほど海のほうに入らなくてはならず、ひどく遠く感じました。
 今日は、時間もなかったので、幹線道路に戻ることなく、そのまま村に直行です。ただし川の橋が、津波で流されてしまっているため、途中でクルマを降り、川を艀で渡らなくてはなりません。そのあと雨のなか、村まで歩いていきました。
 5月3日の報告で流しましたが、漁具の材料を支援し、すでに製作がはじまったので、村の人たちに見に来てもらいたいと言われたのです。西バクティア郡の被災者は、まったく外部からの援助を受けていないため、わたしたちの小さな支援でも、過大に感謝してくれ、面映いばかりです。
c0035102_429044.jpg 雨で停電していましたが、ハグ村のあちらこちらの家で、アンベ、ジャラを製作しているところを案内されました。ブベェについては、ブランデ・パヤ村に行かなくてはならず、帰りの時間が気になったため、村の人たちには、「明日帰るのであれば、なんとか見てもらいたい」と言ってもらったのですが、「8月に戻ったときに、漁に出ているところを見せてもらいます」と遠慮させてもらいました。
 本当に8月に戻って、みなさんが漁に出ているところを見たいものです。
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by NINDJA | 2005-05-08 04:25 | NINDJAの救援活動
○西クアラ・クルト村を訪問

 5月2日に漁具の材料を支援したタナ・パシール郡西クアラ・クルト村を訪問しました。サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落と同じく、ハンセン病患者の村です。
 同じ津波被災者同士なのに、こういう話を聞くのは本当にイヤなのですが、以前、東クアラ・クルト村の人たちと話していたとき、「クアラ・クルト村は一つだけだ。東クアラ・クルト村なんていうのはない。あるのはクアラ・クルト村とハンセン(こちらではレプラと呼ばれている)村だけだ」と言われたことがあります。
 北アチェ県・ロスマウェ市の村々をほぼ全部網羅した時点で、今後の支援のあり方を考えなくてはならないと思っていましたが、2月から村々を歩いていて、やはり、より差別されている村、より援助物資が届かない村、より貧しい村を重点的に支援していこうと、友人たちと話し合いました。西クアラ・クルト村は、その一つになります。
c0035102_3594166.jpg 友人のオートバイに乗って、サムドゥラ郡の津波被災村を横断して、村に向かいました。途中、サムドゥラ郡ブリンギン村で、政府が建設した仮設住宅を通り過ぎました。サムドゥラ郡の人びとは、みな仮設住宅を拒否、津波で破壊された家の残骸を拾って、自分で家を建てることを選択しました。そのため広大な仮設住宅は、いま誰にもつかわれないままになっています。
 2月はじめの段階で、すでに仮設住宅拒否の声は上がっていたにも関わらず、政府は建設をつづけました。その結果がこれです。これぞおカネの無駄づかい。いっぽうで、援助物資が届かない村々があるというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
 さて、西クアラ・クルト村で、なによりも印象深かったのが、写真のマルズキさんです。
c0035102_401259.jpg マルズキさんは、夫婦ともにハンセン病に罹っています。右足と両手の指を失っていますが、これまでガソリンや灯油を販売する仕事をしていました。しかし津波で、家もドラム缶も、そして義足も流されました。いまは韓国の団体から支援された松葉杖を突き、背中にタバコを入れた小さなリュックを背負っています。海から戻ってきた漁師が、マルズキさんからタバコを1本、2本と買い、リュックにおカネを入れていくのです。またサムドゥラ郡役場所在地であるグドンから灯油のドラム缶を1缶預かり、販売を代行しています。
 マルズキさんのいまの悩みは、家のことです。現在、49世帯のうち13世帯が村に戻ったのですが、マルズキさんはまだ家の柱しか建てられていません。屋根がないため、いまは息子とともに、ムナサ(村の祈祷所)で暮らしています。ただ高床式のため、不自由な足で上り下りしなくてはならないのです。そのため、マルズキさんの妻は耐えられない、とキャンプに戻ってしまいました。
 川魚なら獲ることができるというので、マルズキさんには、すでに川魚用の漁網を支援していますが、屋根用のルンビアの葉も支援することにしました。また津波前は、義足があり、自転車にも乗ることができていたという話なので、なんとか義足を支援できないか、友人たちに調べてもらうことにもなりました。ただし、これはまだマルズキさんには内緒です。
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by NINDJA | 2005-05-07 03:58 | NINDJAの救援活動