2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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カテゴリ:NINDJAの救援活動( 73 )

○マタン・スリメン集落訪問
 4月27日の活動報告で流しましたが、サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落は、タナ・パシール郡西クアラ・クルト村と並んで、ハンセン病患者が「隔離」されてきた集落です。
 元の集落は、海から約100m程度で、津波ですべて流されました。しかしクタ・クルン村の住民と同じキャンプでも、仮設住宅(サムドゥラ郡ブリンギン村)でも、受入れを拒否され、いまはサムドゥラ・パセー王国の女王ナリシャのお墓の前にある観光局所有の小屋で、 84人が避難生活を送っています。ここにはサウォッ・サベェ 14、サウォッ・シラン8、ジャラ5、漁網3の支援をおこないました。
c0035102_331329.jpg 上記報告で流したように、男性たちは小屋の前に建てたテントで寝泊りしており、雨が降るとびしょぬれになってしまうというので、屋根を支援することになりました。今日は、屋根の骨格をつくるための竹と、屋根を葺くためのルンビアの葉がどのくらい必要かを確認しに行ったのです。
 すでに半年ほどつづく西風の季節に入っており、サウォッでおこなうエビ漁(プカット・ソロン)のシーズンは終わってしまいました。いまもエビ漁をおこなっているようですが、1日6000ルピア程度の収入にしかなりません。まったく収入がないよりはマシですが、なにか季節に左右されない生業の支援をおこないたいところです。
 ただ人びとに聞くと、もともとエビ漁以外の生業はなかったとのこと。では、どうやって暮らしていたのかといえば、津波前には、社会省から、重度のハンセン病患者に対して、1人あたり月にコメ30kg、砂糖5kg、食用油5kg、塩干魚、緑豆などの支援があったらしいのです。津波後、この支援が途絶えてしまい、人びとはかなり困難な状況に追い込まれています。しかし、人びとは、自分たちがどこでも受け入れられないこと、支援を受けられないこと、すべてを諦めています。
 人びとと話をしていると、糖尿病にかかったというおじいさんが、「薬代1万5000ルピア支援してほしい」と言ってきました。支援したいけれども、1人だけに支援するわけにもいかないと考え、人びとが「クチッ(アチェ語で村長)」と呼ぶ集落長に50万ルピアを預け、同様の必要性があるときに渡してもらうよう頼みました。
 しかし集落長は慎重でした。何が問題が起きたら困るというのです。集落長や人びとと話し合い、集落長に、無償で治療を受けられるJPSという書類を全員分取得してもらうことにし、50万ルピアをJPS取得にかかる交通費などの経費にあててもらうことになりました。JPSというものがあること自体、わたしは知らなかったので、人びとと話し合うことで、よりよい方法を見つけられるんだと再確認させられました。

○西ランチャン村訪問
 マタン・スリメン集落のあとは、西ランチャン村の水道を確認しに行きました。昼間でしたが、子どもたちがマンディ(水浴び)し、女性たちが洗濯をしています。
c0035102_334440.jpg 6万円程度の経費で川から引いた水道のため、けっしてきれいな水とはいえないのですが(日本人のほとんどは、あの水で洗顔や歯磨きするのを躊躇するだろうなぁ)、いままで塩水しか出ず、子どもたちが学校に行く前にマンディできないという状況よりはずっとマシになっています。子どもたちは、何度も何度も、コンクリ槽から水を汲んで、ざぶざぶ浴びています。いまは4回も5回もマンディしているとか。
 コンクリ槽がつくられた2カ所を確認し、工事が無事終了したことを確認したあと、村の女性たちと高床式のあずまやで休憩です。ヤシの実をもらって、のどの渇きをいやし、30分ほどおしゃべり。
 わたしたちが村を離れるとき、飲料水を運んだトラックが来て、あずまやの近く、村のもっとも奥に停まりました。女性も子どもも、とにかく一家総出で、急いで家に走ります。遠い人は500mくらい走らなくてはなりません。家にあるバケツ、ポリタンク、ありとあらゆる容器をもって、トラックまで引き返します。たいへんだろうと思いますが、それでも水が取りに行く人びとの顔は、うれしそうなのでした。
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by NINDJA | 2005-05-05 01:01 | NINDJAの救援活動
○西バクティア郡で漁具供与

 3月26日の活動報告で流しましたが、誇張でなく、まったく支援の届いていない西バクティア郡3カ村(ロッ・インチン、ハグ、ブランデ・パヤ村)への漁具買い付け、供与をおこないました。
 これまで漁具の買い付けは、ロスマウェかサムドゥラ郡グドンでおこなっていましたが、タナ・ジャンボ・アイェ郡の町パントン・ラブで買い付けすることになりました。事前に、友人が値段をチェックしに行ったとき、買い付けをおこなうことを伝えてあったのですが、合計約45万円という買い付けに、店主夫婦はパニックです。
 実際、買い付けはかなりたいへんな作業です。西バクティア郡3カ村から支援要請のあったのは、
・ブベェ(写真は3月26日の報告を参照):養殖池に仕掛けてカニをとる、1世帯15個を供与
・ジャラ(写真は3月9日の報告を参照):海や養殖池での投網
c0035102_2125865.jpg・アンベ(写真):川に仕掛けて魚をとる
の3種類です。それぞれの村ごとに、支援対象の世帯数が違うので、材料となる網、糸、重石、ナイロン紐などの量も異なってきます。
 村の人びとから、たとえばブベェであれば、ひとつ製作するために、どの種類の網を何kg必要か、縫い糸はどの番号で何束必要か、といったことを聞き、計算します。それを店主に伝え、秤で量ってもらいます。この秤が、分銅で量るレトロなもので、網を70kgほど載せると、目盛りが見えなくなってしまうわ、100kg以上は量れないわ、かなり厄介です。
 店主の妻が伝票を書くのですが、「パニックだわ~!」「訳わからない~!」と悲鳴をあげています。ふだん、どんなに多くても3万円程度の買い物をする人しかいないようで、たしかにたいへんそう。午前からはじまった買い付けは、けっきょく昼食抜きで、夕方までかかってしまいました。しかも最後に、店主の妻とわたしとで会計を締めようとしたら、約7万円の誤差。わたしが黙っていれば、お店は多大な損をするところだったので、ひどく感謝されてしまいました。
 その後、お店で車を準備してくれ、村に向かいました。わたしは、村の人たちや運転手の手伝いをしている若者たちと荷台に乗り、途中、いろいろおしゃべりです。「アチェは豊かなのに、ぜんぶジャカルタに吸い上げられる」「紛争のせいで、仕事もできない」などなど、どこでもされる会話がつづきます。
 「アチェに来て、怖くないか?」と聞かれたので、「ぜんぜん」と答えたら、一人の村の人が「怖いわけがないよね。『魔法の手紙』があるもんね」。3月26日の報告にも書きましたが、前回、西バクティア郡を訪れたとき、海兵隊兵士に「何をしているんだ?」と聞かれ、わたしが北アチェ県からの手紙を出して、兵士を黙らせたことを覚えていたようです。そのとき集まっていた村の人たちが「魔法の手紙だね」と言っていたのですが、きっと、よほどうれしかったのでしょう。
 途中、海兵隊に呼び止められ、「なにを運ぶんだ?」「どこへ行くんだ?」と言われましたが、ここでも「魔法の手紙」が効力を発揮し、無事に村まで物資を届けることができました。
 ちなみに村は、北スマトラ州のメダンとバンダ・アチェを結ぶ幹線道路から、かなり奥に入ったところにあります。幹線道路上にあるサンポイニットという郡役場所在地まで送ってもらい、マグリブ(イスラーム4回目の礼拝、夕方6時半ごろ)にパンターという乗合バスに乗ることができましたが、ロスマウェに着いたのは20時でした。村から計算すると、片道2時間半くらいの道のりです。

ロッ・インチン村
・ブベェ(10世帯×15個):材料費164万3750ルピア、製作費180万ルピア
・ジャラ(20世帯):材料費683万3000ルピア、製作費150万ルピア
・アンベ(11世帯):材料費506万5300ルピア、製作費55万ルピア
ハグ村
・ブベェ(12世帯×15個):材料費148万4000ルピア、製作費216万ルピア
・ジャラ(21世帯):材料費715万1600ルピア、製作費157万5000ルピア
・アンベ(10世帯):材料費459万5600ルピア、製作費50万ルピア
ブランデ・パヤ村
・ブベェ(9世帯×15個):材料費197万2500ルピア、製作費162万ルピア
・ジャラ(25世帯):材料費851万6500ルピア、製作費187万5000ルピア
・アンベ(11世帯):材料費505万7000ルピア、製作費55万ルピア
※ただし製作費は4分の1のみ前払い
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by NINDJA | 2005-05-04 02:11 | NINDJAの救援活動
○スヌドン郡、塩づくり支援

 3月24日の活動報告でも流しましたが、スヌドン郡で塩づくりを再開した女性たちの支援として、必要な器具の供与をおこないました。支援をおこなったのは、トゥピン・クユン村45世帯(2709万7500ルピア)、マタン・ラダ村・東ウレェ・ルベック村あわせて 52世帯(3246万6000ルピア)の計97世帯です。
 スヌドン郡は、北アチェ県でもっとも東に位置し、ロスマウェの町から村まで約2時間かかります。スヌドン郡だけではありませんが、ロスマウェや幹線道路から遠い村ほど、支援の手が届きづらくなっています。
c0035102_21354196.jpg まずトゥピン・クユン村では、津波前から、女性たちがグループをつくっていました。ただ、あまり機能しないまま、津波が起きてしまい、今回の支援をきっかけに、再度グループづくりもおこないました。代表、書記、会計が選ばれ、メンバーが週2000ルピアの会費を払うことが決まりました。毎週2000ルピアは、けっこう厳しいのではないかと思うのですが、女性たちがそう決定したのです。
 その後、友人が、グループの意味を話しました。わたしたちが支援したのは、塩づくりに必要な器具だけですが、集めた会費で、塩水を煮るためのジャンボ(小屋)を建てるなど、グループのニーズを満たしていけるという説明に、女性たちもうなづいています。昨日(4月30日)のプソン・バル村での「トラウマ」も、こうやって自分たちの手で復興していこうという女性たちに会うと、癒されるような気がします。
c0035102_21362257.jpg グループの代表から一人ひとりに器具が手渡され、無事、トゥピン・クユン村での支援はほぼ終了です。
 つぎに東ウレェ・ルベック村に向かいました。ここではマタン・ラダ村からの4世帯も塩づくりをおこなっています。3月にその話を聞いたときは、村同士で衝突が起きないかしら、とも思ったのですが、津波以前からそのようにして問題がなかったそうです。
c0035102_2137827.jpg ただ、トゥピン・クユン村とは違って、グループがあったわけではなく、そのまま器具を供与しました。みなで運ばれた器具を、一人ひとりのセットに組んだり、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、子どもたち総出で、それぞれのジャンボまで運んだりしているのをみて、ほっと一安心です。
 ちなみにスヌドン郡の塩は竹で数えて売られています。わたしも竹2筒分購入しました。ニンジャ周辺の講演会などで販売していますので、見かけたら、ぜひお声をかけてくださいね。
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by NINDJA | 2005-05-01 23:33 | NINDJAの救援活動
○プソン・バル村でアンチャッ供与

 バンダ・サクティ郡プソン・バル村は、ロスマウェの魚いちばのすぐ裏、海沿いにある村です。プソン・ラマ村と並び、この地域での支援は、かなり困難です。 街中であることから、生計を立てるために移住してきた人も多く、もともとの居住者とのあいだの関係が悪い。土地がなく、人びとは海沿いの狭い土地に密集して、厳しい生活を送っている。いろいろな要因があるのでしょう。支援物資が足りなければ足りないで、誰がとるのかで争い、あまればあまったで、やはり誰がとるのかで争う。「プソンの人の頭は、石より硬い」――そんな話をよく聞いていました。
c0035102_3381764.jpg 今回、わたしたちが支援するにあたっても、なんの支援が必要なのか、実は2カ月以上話がまとまりませんでした。最終的に、一定数への支援がおこなえそうだと判断したのが「アンチャッ」と呼ばれる、魚を干す台です。1世帯につき5台ずつ、40世帯への支援が決まりました。さらにカドゥラをとる漁網の支援もすることになりました。
 本日、アンチャッをつくるための角材(1台3本、つまり600本)、網、釘を購入したのち、プソン・バル村で供与をおこない、これまで聞いていた話を、体感させられることになりました。
 「なんだって、40世帯だけなんだ?」
 「みんな、津波の被害者だ」
 「全員に、均等に分けてくれないと不平等だ」
 「暴動を起こすぞ」
 ありとあらゆる人びとから、そんな声が投げかけられます。いっぽうで、「あの人たちは扇動者」「あの人は、アンチャッで魚を干すことを生業としていない」「あの人は、アンチャッを50台、つくったばかり」という反論も出ます。
 わたし自身も、一人ひとりに、わたしたちの支援が、あくまでカンパで成り立っており、大量の資金を動かしているわけではないこと、それゆえに、より貧しい人びとを優先していること、すでにアンチャッを50台もっている人に支援すれば、やはり不平等であると思われることを説明しました。しかし、理解してくれているようにはみえません。
 あちらでも、こちらでも、人びとが声を上げている状態で、わたしは「今日の供与は中止! 村のなかでの調整が必要」と一言。しかし、けっきょくは供与がはじまってしまいました。
c0035102_3363194.jpg さらに、供与が一段落したところで、木材が足りなくなっていることが判明します。誰かがもっていってしまった、もっと直接的な言葉をつかえば、盗んでいったのでした。
 朝から、昼ごはんも食べられないまま活動し、夕方ぐったりして家に戻ると、村から3人の男性がやってきました。あとで集落長が「彼ら3人が騒ぐせいで、村の2000人がいつも飢えている」と評した男性たちなのですが、わたし自身が知らなかった反省材料を指摘してくれました。
 つまり、データをまとめてくれた村の女性の問題で、自身がアンチャッを受けただけでなく、夫が漁網を受けていたというのです。わたしたちの、これまでの原則は「1世帯1つ」ということでした。友人たちは、何度も何度も説明したようですが、その女性は黙って、夫の名前をデータに入れていたのです。
 「より貧しい人たちを優先」という原則を理解してもらえたとしても、一部で2種類の支援を受けている人がいれば、人びとが納得するわけがありません。わたしたちは、この女性に、人びとの前で漁網を返すよう提案しました。女性は、「あの人たちは扇動者だから気にすることはない」などと言って、絶対に譲ろうとしません。
 いっぽうで、この報告をまとめている2日まで、毎晩、毎晩、プソン・バル村の人びとが、我が家に来ます。商売をしている人が「漁網をほしい」と言ってきたり、データをまとめた女性の悪口を言いに来たり。いささか、わたしたちはストレス気味です。
 それにしても、支援の難しさを、つくづく感じさせられます。これまでも、村のなかにある貧富の格差の問題にどう対処するか、ということは話し合っていました。第一段階に貧困層を優先し、第二段階でさらに枠を広げたとする。新たに支援対象となる人びとが必要としているものは、第一段階の貧困層が必要としているものより、資金が必要となる可能性が高い。貧困層により少ない支援だなんて、あってはならない話だし、どうやって解決したらいいだろうか。わたしたちの宿題となっています。
 さらにプソン・バル村の経験も、新たな宿題となりました。
 ちなみに、プソン地域は、自由アチェ運動(GAM)の拠点と言われていた地域です。ロスマウェで聞こえる銃声は、だいたいプソンかウジョン・ブランという地域の方角から、というほどです。プソンの人たちがGAMメンバーになったら、絶対に譲らないし、たいへんだろうなぁと、しみじみ考えてしまいました。
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by NINDJA | 2005-04-30 23:35 | NINDJAの救援活動
 本日(4月27日)、3回目の北アチェ県・ロスマウェ入りです。国際援助機関・外国NGOの選別がはじまっているため心配もありましたが、なんら問題なく、まずは一安心。この間の活動について、友人たちと話し合いました。以下、すでに流したものと一部重複することもありますが、2月からの活動について、まとめておきたいと思います。これまでの活動については、「ニンジャの救援活動」の項目をご覧ください。

(北アチェ県・ロスマウェ市東から)
○スヌドン郡
 自由アチェ運動(GAM)の拠点の一つと考えられているスヌドン郡では、被災者たちがあまり支援を受けられないなか、女性たちが塩づくりを再開しました。ニンジャは、この塩づくりに必要な機材の支援をおこなっています。ほぼ終了しましたが、海水を煮込むためのドラム缶を大量に購入できる場所がなく、いま企業なども含めて可能性を探っています。

*マタン・ラダ村+東ウレェ・ルベック村 52世帯:3246万6000ルピア
*トゥピン・クユン村 45世帯:2709万7500ルピア

 まだ支援をおこなっていない6カ村でも、被災者のニーズを聞いています。しかし、被災者たちは、これまで世帯数などのデータを渡しても、その後連絡がないままという経験があまりに多すぎて、わたしたちに対しても不信感をもっているようです。ただ、昨晩、そのうちの1カ村の人から電話があったようですので、もしかしたら、少しは信用しはじめてくれたのかもしれません。

○西バクティア郡
c0035102_0382194.jpg 3月の帰国前、はじめて西バクティア郡も津波の被害を受けているとわかり、急遽、訪問していました。まったく援助を受けておらず、わたしが最初の「外国人」でした。養殖池などでカニをとるブベェと呼ばれるカゴの支援要請を受けていますが、さらに、ロスマウェの事務所で世帯ごとに物資を梱包、緊急救援として物資を2回運びました。

c0035102_054269.jpg*パヤ・バトゥン村 26世帯105人
*ロッ・ウンチン村 44世帯197人
*ハグ村 148世帯614人
*ブランデ村 115世帯516人
計2064万6850ルピア

○タナ・パシール郡
 すでに3カ村で漁具の製作・支援が終わりました。うれしいことに、被災者たちは、いまでもロスマウェの事務所をたびたび訪ねてくれ、わたしたちの活動に参加してくれているそうです。西バクティア郡へ緊急支援をおこなった際には、タナ・パシール郡の被災者が、いっしょに物資の梱包や輸送をおこなってくれました。

*マタン・バル村
 サウォッ・サベェ8、サウォッ・シラン60:2729万4100ルピア
*東クアラ・クルト村
 サベェ23、シラン46:2479万9900ルピア
*クアラ・チャンコイ村
 ・サベェ28、シラン54、ジャラ4:2708万3200ルピア

 そのほか、マタン・ジャネン村からブベェ、アンベ(サウォッのようなかたちの定置網)、ジャラの支援要請があります。

○サムドゥラ郡
*ブラン・ニボン村
 サベェ45、シラン10、モスク用アンプ+ポンプ:1216万9280ルピア
*サワン村
 サベェ99、モスク用布:1778万6030ルピア
*プウク村
 サベェ23、ジャラ5:539万9900ルピア
*ブリンギン村
 サベェ8、ジャラ42:1502万9000ルピア
*マタン・ウリム村
 サベェ24、ジャラ16:977万6100ルピア
*クタ・グルンパン村
 サベェ8、シラン10、ジャラ36:1609万4000ルピア
*クタ・クルン村マタン・スリメン集落
 サベェ14、シラン8、ジャラ5、漁網3、干エビ用シート、枕、ポリタンク:817万1500ルピア
*西ランチャン村
 ジャラ31、水道設置:1634万6000ルピア

 クタ・グルンパン村の被災者の一人が、カドゥラという魚を獲るための漁網の支援を求めて、何日間も、ロスマウェのいちばにある漁具のお店に通って、わたしたちが来るのを待っていたそうです。うれしいような、悲しいような、複雑な心境です。わたしたちの支援は、日本のみなさんのカンパだけですから、諸外国政府やほかの援助機関と比べると、資金は微々たるものです。それでも、ほかに頼れる場がないということは、どういうことなのでしょうか。
 マタン・スリメン集落は、ハンセン病患者が「隔離」されてきた地域です。そのため仮設住宅への入居も拒否され、いまはある一軒家に避難しています。家には女性たちが住み、男性たちはその前でテント生活です。そのため雨が降ると、男性たちは塗れてしまうそうです。女性たちが悲しく思って、何とか屋根だけでも…と支援を求めてきました。屋根用のルンビアという木の葉を支援することになりました。
c0035102_056432.jpg 西ランチャン村は、サムドゥラ郡のなかでも最貧村です。男性たちは、結婚すると村を離れ、村に残っているのは年老いた女性がほとんどです。そのため、軍事戒厳令以降、義務づけられた夜警をおこなえる男性は、村にたった3人だけというぐらいです。この村は塩水しか出ず、子どもたちが学校へ行くのにも、人びとがお葬式などに行くのにも、マンディ(水浴び)すらできませんでした。そのため川から水道を引いてくることにしました。c0035102_0563277.jpg女性たちが水道設置を手伝い、ほぼ完成した状態です。最初に水が出たときには、みんな笑い転げたそうです。

○バユ郡
*ランチョッ村
 サベェ57、シラン52:2196万3300ルピア

○ブラン・マンガット郡
*ジャンボ・メスジッド村
 サベェ32、シラン17、ジャラ12、干エビ用シート、女性用サルン:1673万400ルピア
*ジャンボ・ティモ村
 サベェ22、シラン21、干エビ用シート:1031万700ルピア
*クアラ・ムラクサ村
 サベェ23、シラン28、ジャラ43:2623万3900ルピア

○バンダ・サクティ郡
*プソン・ラマ村
 ミルク・フィッシュ用漁網88、カドゥラ用漁網36:2592万4000ルピア

 現在プソン・バル村にアンチャッ(魚を干すシート)、クデ・アチェ村用に漁網支援の準備を進めています。

○ムアラ・バトゥ郡
*パンテ・グラ村
 カツオ釣り糸10:344万5000ルピア
*チョッ・スラニ村
 カツオ釣り糸10:344万5000ルピア

◎合計:3億6821万1660ルピア=約420万円
(2月前半の緊急救援、ロスマウェ事務所経費などを除く)
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by NINDJA | 2005-04-28 00:57 | NINDJAの救援活動
 わたしがアチェにいないあいだは、友人たちからの連絡をもとにお伝えします。

c0035102_2153673.jpg○クタ・クルン村マタン・スリメン集落(ハンセン病患者の集落)
 サウォッ・サベェ14個、サウォッ・シラン8個、ジャラ5個、ジャレン(漁網)3個を供与。それぞれ材料の買い付けは終了。被災者から要請のあった枕も全員分(84個)購入し、供与した。

c0035102_223256.jpg○プソン・ラマ村(バンダ・サクティ郡)
 プソンは、ロスマウェ市の中心、魚市場の近くにある。被災者のなかには、もともとのプソンの住民と、移住者とに分かれている。これは、ほかの村にはみられない特徴で、関係をつくるのが難しかった。1カ月ほど、ニーズを確認するのに時間がかかったが、4月4日、バンデン(ミルク・フィッシュ)用漁網を88、カドゥラ(?)用漁網を36供与した(供与したのは漁網の材料)。
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by NINDJA | 2005-04-06 02:24 | NINDJAの救援活動
○クアラ・クルト村のプカット・ソロン
 いよいよアチェ最終日である。早起きして6時には家を出発、クアラ・クルト村のプカット・ソロンを見に行った。20カ村近く支援してきたなかで、もっとも印象深い村の一つである。
 クアラ・クルト村は、「災難」つづきの村だ。津波で家がすべて破壊され、191世帯が避難生活を送る。1月25日、6人の男性がGAMに関与しているとして、タナ・パシール軍分支部(Koramil)兵士に逮捕された。Koramil兵士はさらに、クアラ・クルト村の別の住民19人(つぎに話を聞いたときは12人)がGAMに関与しているとして、投降するよう警告を与えたという。なぜ投降(出頭)しなくてはならないのかわからない住民は、それでも夜「誘拐」されるよりはマシだと出頭した。いまは、週1度の出頭義務を課せられているらしい。
 さらに2月10日には、援助物資のインスタントラーメンが原因で、200人以上が食中毒になり、病院に運ばれた。タナ・パシール郡の避難キャンプは、郡役場、Koramil、郡警の三者が管理している。キャンプを訪問する人は、キャンプ内に設置された郡役場の「救援ポスト」で許可を取る必要がある。実は、この救援ポストが厄介な代物で、かなりの援助物資を隠匿してしまっていると伝えられている。被災者がどれだけ要求しても「ない」と言われつづけたミルクも、食中毒になって、嘔吐用にはじめて何箱も与えられた。被災者は、もちろん、「いまさらミルクをもらっても……」と嘆いていた。
 この救援ポストは、わざわざマグリブ中に、援助物資を受け取るよう呼び出しをかけて、問題になっている。マグリブというのは、イスラームで4回目、日没の礼拝のことである。北アチェ県・ロスマウェ市一帯では、人びとは外出を避け、家のなかで静かにマグリブの時間を迎える。被災者たちは、「あちらでも、こちらでも、モスクから『アッラー・アクバル』と聞こえてくるのに、キャンプでは『ハロー、ハロー』と呼び出しだ。しかも祈祷していて、物資を取りに行かないと、物資をもらえないんだ」と怒りをあらわにする。さらに、この呼び出し用スピーカーでは、未明に「キャンプを片付けろ。お前ら、豚のようだ」といった侮辱的な放送までされた。
 堪えきれなくなった被災者たちは、3月12日、キャンプを出て、クアラ・クルト村に戻った。キャンプに残った被災者たちも緊張し、女性たちが男性たちを囲うようにして、つまり男性たちが「誘拐」されないようにして、夜を過ごしたという。13日、クアラ・クルト村周辺は緊迫していた。わたし自身も、2度も国軍兵士に止められ、村に行く目的など説明させられた。北アチェ県知事からの活動に対する推薦状がなければ、村には行くことができなかっただろう。荷物をまとめて、トラックを借りて、村に戻ろうとする人びとが、国軍詰所の前で止められ、全員引き返させられている。12日のうちに村に入った人びとと、キャンプに残った人びとと、バラバラにさせられてしまった。
c0035102_244418.jpg 最終的には、全員がキャンプに戻ったが、「キャンプに戻れば、国軍に誘拐される」と数晩、被災者たちが転々としている様子は、地震・津波後も、実は好転していない人権状況をうかがわせるのに十分だった。
 そのクアラ・クルト村の人びとが、現在、未明の3時にキャンプを出発して、2時間もかけて村まで歩き、朝5時から8時近くまでの干潮の時間を利用して、プカット・ソロンに励んでいる。c0035102_25610.jpg写真で、3人並んだ男性は、みな津波で妻を失ったという。それでも、彼らは海に戻っている。家もなく、人も住んでいない村に、エビの仲買人も戻ってきていた。

○西バクティア郡への支援
 実は、これまでまったく情報が入らず、支援対象から抜け落ちていたのが西バクティア郡である。スヌドン郡とタナ・パシール郡のあいだに位置し、海に面している地域は非常に少ないが、その地域は完全に破壊されていた。しかし世帯数が少ないせいか、「危険地域」のせいか、つい数日前まで、ここで支援を求めている被災者がいると知らなかった。
 タナ・パシール郡から、そのまま西バクティア郡に向かったが、途中、海兵隊に止められ、追い返されてしまう。北アチェ県知事からの手紙があったため、非常に丁寧な応対ではあったが、「昨日も武力衝突がありましたので」と言われてしまった。
c0035102_274541.jpg かなりの遠回りをして、西バクティア郡ロッ・インチン村にやっとたどり着く。タナ・パシール郡クアラ・チャンコイ村(ここもサウォッの支援した村、なんと女性たちがプカット・ソロンする!)と分ける川の橋が落ち、そのままになっている。筏で渡らなくてはならない。
 被災者と話をしていると、近くにある海兵隊詰所から、すぐ兵士がやってくる。「何をしているんだ?」と、非常に強圧的な態度。被災者が動揺して、「このあたりの状況を見てもらっているんです」と説明する。わたしが、おもむろに北アチェ県知事からの手紙を取り出し、兵士に渡す。兵士は、もはや何も口を出せなくなってしまい、手紙を返して、引き上げていった。被災者のおじさんたち、わたしを見ながら「魔法の手紙」とうれしそうである。
c0035102_275543.jpg 西バクティア郡には、やはり外国からの援助がまったくないらしい。わたしが、はじめての外国人だという。政府からの援助も、最初の2週間だけ。ここには、物資を運んでくる必要もありそうだ。プカット・ソロンする人がいないというので、養殖池に仕掛けるカニとりカゴ(ブゥベェ)の支援をすることにする。

○今後の活動について会議
 次回は、ゴールデンウィークを利用して、アチェに戻ってくるつもりだが、1カ月のお別れになる。もしかしたら、軍事戒厳令のときのように、2年間戻れないということもあるかもしれない。
 わたしがいないあいだの活動の進め方について、友人たちと話し合いをする。BCA銀行同士の口座なら、インターネットバンキングでの振込ができるため、当面は電子メールで連絡を取り合いながら、必要に応じて経費を振り込んでいくことになった。
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by NINDJA | 2005-03-27 01:40 | NINDJAの救援活動
○北アチェ県知事、ロスマウェ市長からの活動許可取得

 この間、あとから追加で要請のあったサウォッの供与をしており、大きな進展はなかったため、長らく活動報告を送れませんでした。
 また、3月26日以降、アチェで活動する外国援助機関・NGOが規制されるため、北アチェ県、ロスマウェ市での活動を継続するための手続きをおこなっていました。活動期限が延びたという報道が流されたと思うと、いっぽうでビザ延長ができなかったという情報が入り、どういう手続きを踏めばいいのか、さっぱりわかりません。また、なまじバンダ・アチェで登録すると、何で北アチェ県という危険な地域で活動するのだ?といわれそうで、けっきょく、直接、北アチェ県知事、ロスマウェ市長からの許可をもらったのでした。

○スヌドン郡塩田の調査

 サウォッの供与も、だいたいのめどがつきつつあり、今日はスヌドン郡での調査をおこないました。スヌドン郡では、避難民が海兵隊に殴られるといった事件がいまも起きています。津波支援を通じて、避難民が人権侵害に直面したとき、訴えられる場をつくっておきたいという思いもあります(タナ・パシール郡については、そういう状況になっています)。ただ、この地域では、プカット・ソロンする人がいません。そのため、どのような支援が適当か、ずっと友人たちと議
論してきました。
c0035102_2121970.jpg スヌドン郡では、女性たちが塩づくりをしています。津波で、塩づくりするための「台所」や道具が流されたり、破壊されたりしました。女性たちは、すでに、自分たちで掘っ立て小屋を建て、塩づくりを再開していました。ただし、つかっている道具も、津波の被害を受けたもの。たとえば煮立てた塩をすくうために、お皿に穴を開け、棒をつけたものをつかっています。スコップや鍬も、同じく間に合わせのものです。
 現時点で、マタン・ラダ村、東ウレェ・ルベック村、トゥピン・クユン村の女性たちが塩づくりを再開しており、この3カ村に対して、塩づくりの道具を供与することになりました。

○ミニ・サウォッのプレゼント

c0035102_2132522.jpg その後、サムドゥラ郡に向かいました。まずブラン・ニボン村にプカット・ソロン用の靴を届けます。ここでの責任者イドゥリスさんが、わたしが日本にもって帰れるように、と小さなサウォッ・サベェを作成してくれていました。かなりカワイイ。27日(日)に帰国すること、4月末にアチェに戻ってくるつもりだということを伝えると、「それこそ、自分たちの望みだ」と言ってくれました。とにかく、外国の目がなくなることを、アチェの人びとは恐れています。
 つぎにサムドゥラ郡のサウォッ・サベェ作成を、かなり一手に引き受けてくれているワリディンさん(サワン村)に帰国のあいさつです。人びとがサウォッを取りに来るときに渡してもらえるよう、靴を預けました。

○ハンセン病の集落への支援

 最後に、サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落の人びとを訪問しました。マタン・スリメン集落は、わたしが確認できた北アチェ県海岸沿いにある二つの「ハンセン病患者の村」のうちの一つです。クタ・クルン村のほかの人たちが入っている仮設住宅に、マタン・スリメン集落の人びとは入ることができませんでした。
 津波が来たとき、逃げることができなかった重度の患者は、木の下で祈りの言葉を唱えながら最期のときを迎えたといいます。ほかの人びとは、死者の清拭をしたがらず、トゥンク(イスラーム指導者)がおこなったとも聞きました。
 ブラン・ニボン村のイドゥリスさんや、グドンでサウォッ材料を買い付けている店ファジャル・ラウットのおじさんから、マタン・スリメン集落の人びともプカット・ソロンしていたこと、なかには店で借金してサウォッを買った人もいると聞き、ここでもサウォッの支援をできるのではないか、と考えています。
 サウォッ・サベェ、サウォッ・シランのどちらを希望するか、それぞれの被災者のデータをもってきてもらうことになりました。
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by NINDJA | 2005-03-25 01:27 | NINDJAの救援活動
○クアラ・ムラクサ村でプシジュッ

 クアラ・ムラクサ村でプシジュッがおこなわれるというので、村を訪れました。朝8時すぎに到着しましたが、ほとんどの人が漁を終えていて、プカット・ソロン自体は見ることができませんでした。
c0035102_1572644.jpg クアラ・ムラクサ村のプシジュッは、ブラン・ニボン村のものとは少し違い、イマンがコメを蒔き、モチゴメをサウォッにつけ、葉につけた水を蒔きます(ブラン・ニボン村では塩と水を蒔いた)。そのあと、モチゴメを食べるのです。ブラン・ニボン村では赤砂糖につけましたが、ここではヤシの実を乾燥させウコンで黄色く染色したものが出てきました。
 プシジュッに参加している限り、サウォッの供与を喜んでもらえているかと思いますが、いっぽうで、この村では問題も起きています。ここも、なんでも仕切りたいおじさんがいて、その勢力(彼らにもサウォッの支援はおこなった)が「アディさん(責任者)は80kgの網をもらって隠匿している」とあらぬ噂を流しているためです。
 サウォッ製作に際して、村で漁具に詳しい人に責任者になってもらっていますが、まったくのボランティアです。データを集めたり、買い付けをおこなったり、サウォッを配ったり、かなりの仕事量を無償でおこなっているのに、こういう噂が流されてしまうのは悲しいことです。
 この間、十数の村で支援活動をおこなっていますが、わたし個人の感覚として、以下のような印象を受けています。
1)自由アチェ運動(GAM)支配地域だった村は、支援しやすい(住民がまとまっている、人権侵害など問題が多く少しの支援でも歓迎される)。
2)村でより貧困の人びとは仮に支援を受けられなくても、ほかの貧しい人びとが支援を受けられれば歓迎してくれる(年老いてプカット・ソロンできない人など)、つまりあらぬ噂を流したり、不満を言ったりするのは、村で割合富裕層である。

○ジャンボ・メスジッド村からの声

 さて、アディさんからバケツいっぱいのエビをお土産にもらって、隣のジャンボ・メスジッド村に向かいます。
c0035102_158436.jpg 政府のリロケーション・プログラムを拒否して、テントをもって村に戻ってきた避難民たちは、何の援助も受けずに、自分たちで村の再建をしていました。瓦礫から集めた木材やトタン板、テントにつかっていたビニールシートなどで家を建てています。
 日本のA新聞の記者が同行され、サウォッ・サベェの供与を受けたイブラヒムさんに取材されました。いつか記事になるかもしれません。

○ロスマウェ市長、北アチェ県知事を訪問

 3月26日以降、アチェで活動をできる外国NGOは選別されるというニュースです。この間、どうするのが一番いいか悩んでいます。北アチェ県での活動を許可されない可能性もあり、バンダ・アチェで登録するとやぶへびに終わるかもしれません。だいたい外国NGOは、国連か支援国政府との協力関係になければいけない、という報道です。
 けっきょく、ロスマウェ市長と北アチェ県知事に、直でお願いしておくことにしました。午後は、両者の訪問です。回答は「問題ない」とのこと。とりあえず推薦状なり、許可書なり書類をもらおうと思っていますが、実際にどうなるかはわかりません。
 どうしても北アチェ県に戻れなければ、友人たちに送金して、プログラムを動かしてもらうことになります。
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by NINDJA | 2005-03-15 01:59 | NINDJAの救援活動
○タナ・パシール郡、国軍に「包囲」

 昨晩、家に来たタナ・パシール郡の避難民のおじさんたちとともに、元の村に向かいました。プシジュッがおこなわれる予定でしたが、それ以上に、昨晩の事件後の様子が気になります。元の村のモスクのアンプ、スピーカー、マイクが津波で流されてしまったとのことなので、グドンで購入しました。
 はじめ、わたしたちと一緒に行けば、事件について外部に伝えたとして、逮捕されるかもしれないと、途中で降り再び合流するつもりでいたおじさんたちですが、そのまま村まで向かいます。
 しかし、キャンプを越え、村に向かう途中で、国軍に止められることになりました。学生たちを残し、わたしと友人だけが降ります。何をしに来たのか、どこに行くのかという質問に加え、顔つきも警戒しているのが明らかです。北アチェ県から全郡長に向けた手紙を2月に取得していたので、それを見せて、やっと通行を許可されました。ただし手紙は、軍分支部(Koramil)司令官が調べるというので取り上げられ、帰るときに取りに来いと命じられましたが。
 昨晩、避難民キャンプから「逃れた」人びとは、元の村のモスク周辺にいました。支援のアンプ、スピーカー、マイクをイマン(イスラーム指導者)に渡すと、彼は感極まってしまい、下を向きながら、途絶え途絶えに「わたしが責任をもって管理します。本当にありがとうございました」周りで、泣いている女性もいます。昨晩の事件で興奮しているのもあるのでしょうが、あとで友人から「ああやって直接、支援を受けたことがないから感極まったらしいよ」と言われました。
 さて、国軍に止められたこともあり、村に到着するのが遅くなってしまいました。この村では満潮の時間が来てしまったため、漁師たちはみなプカット・ソロンから戻ってきてしまっています。そこで、まだ漁に出ている人がいるという同じタナ・パシール郡のお隣の村まで行くことにしました。
 途中、別の国軍詰所で止められます。また同じ質問。同じように警戒されています。もう北アチェ県知事からの手紙はもってきていないし、さてどうしようかと思いましたが、すでに軍分支部司令官から許可を取ったと伝え、ここも通過できました。
 もうひとつの村では、人びとが集まって、顔を曇らせています。わたしたちのために、わざわざプカット・ソロンしてもらうのは申し訳なく、けっきょく、早々に引き上げました。
 帰り道、軍分支部司令官のところに顔を出すと、郡長が来ていました。わたしたちが、郡長に出頭しなかったこと、郡長を通じて支援をしなかったことで怒っているようです。かなり横柄な人で、これでは避難民からの信頼を得られないのも無理ないと思いました。「ここは危険な地域だ」というのですが、いったい、何で危ないと言うのでしょうか。
 軍分支部前では、キャンプから荷物をまとめ、ピックアップを借りて戻ろうとした人びとが、みんな止められ、キャンプに戻るよう命じられていました。自分たちの村にも戻れないというのは、いったい、どういうことなのでしょうか。
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by NINDJA | 2005-03-14 18:28 | NINDJAの救援活動