2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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 マラッカ海峡でタグ・ボートが海賊に襲撃され、日本人が拉致された件について、自由アチェ運動(GAM)の手口と似ているとの声明が、インドネシア国軍側から出され、日本でもそのように報道されているようです。
 タグ・ボートを襲撃した船がマレーシア船籍だったという報道もあり、マレーシア在住のGAM幹部、東アチェ県GAM広報官などに、直接・間接的に確認をしました。「現在、森に潜んでいるGAMにそんな能力はない」というのが、GAM側全員の回答です。
 インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)は、津波の被害を受けた北アチェ県の海岸沿いをほぼ網羅するかたちで支援をおこなっており、毎日、どこかの海岸沿いの村を訪れています。支援・調査活動のなかで明らかに言えることは、以下の点です。
1)軍事戒厳令以降(2003年5月)、海岸沿いは海兵隊(インドネシア海軍の精鋭部隊)が押さえている。漁師は、漁に出る際、海兵隊詰所前を通過して、漁船番号を見せなくてはならない、数日に1回(もしくは漁に出る際)、海兵隊詰所に出頭しなくてはならない、などの監視・管理をいまも受けている。
2)ここ数日、北アチェ県の海岸沿いの村々に、海兵隊兵士が増派されている。
3)軍事戒厳令以前は、村を訪れれば、必ずGAMメンバーに出会うほどだったが、津波以降、一度も見かけることがない。
 以前から、海賊行為へのインドネシア海軍の関与は噂されています。断定はできませんが、GAMが関与したというより、インドネシア海軍が関与したというほうが、状況的には理解しやすいとは思われます。
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by NINDJA | 2005-03-17 01:06 | その他
○クアラ・ムラクサ村でプシジュッ

 クアラ・ムラクサ村でプシジュッがおこなわれるというので、村を訪れました。朝8時すぎに到着しましたが、ほとんどの人が漁を終えていて、プカット・ソロン自体は見ることができませんでした。
c0035102_1572644.jpg クアラ・ムラクサ村のプシジュッは、ブラン・ニボン村のものとは少し違い、イマンがコメを蒔き、モチゴメをサウォッにつけ、葉につけた水を蒔きます(ブラン・ニボン村では塩と水を蒔いた)。そのあと、モチゴメを食べるのです。ブラン・ニボン村では赤砂糖につけましたが、ここではヤシの実を乾燥させウコンで黄色く染色したものが出てきました。
 プシジュッに参加している限り、サウォッの供与を喜んでもらえているかと思いますが、いっぽうで、この村では問題も起きています。ここも、なんでも仕切りたいおじさんがいて、その勢力(彼らにもサウォッの支援はおこなった)が「アディさん(責任者)は80kgの網をもらって隠匿している」とあらぬ噂を流しているためです。
 サウォッ製作に際して、村で漁具に詳しい人に責任者になってもらっていますが、まったくのボランティアです。データを集めたり、買い付けをおこなったり、サウォッを配ったり、かなりの仕事量を無償でおこなっているのに、こういう噂が流されてしまうのは悲しいことです。
 この間、十数の村で支援活動をおこなっていますが、わたし個人の感覚として、以下のような印象を受けています。
1)自由アチェ運動(GAM)支配地域だった村は、支援しやすい(住民がまとまっている、人権侵害など問題が多く少しの支援でも歓迎される)。
2)村でより貧困の人びとは仮に支援を受けられなくても、ほかの貧しい人びとが支援を受けられれば歓迎してくれる(年老いてプカット・ソロンできない人など)、つまりあらぬ噂を流したり、不満を言ったりするのは、村で割合富裕層である。

○ジャンボ・メスジッド村からの声

 さて、アディさんからバケツいっぱいのエビをお土産にもらって、隣のジャンボ・メスジッド村に向かいます。
c0035102_158436.jpg 政府のリロケーション・プログラムを拒否して、テントをもって村に戻ってきた避難民たちは、何の援助も受けずに、自分たちで村の再建をしていました。瓦礫から集めた木材やトタン板、テントにつかっていたビニールシートなどで家を建てています。
 日本のA新聞の記者が同行され、サウォッ・サベェの供与を受けたイブラヒムさんに取材されました。いつか記事になるかもしれません。

○ロスマウェ市長、北アチェ県知事を訪問

 3月26日以降、アチェで活動をできる外国NGOは選別されるというニュースです。この間、どうするのが一番いいか悩んでいます。北アチェ県での活動を許可されない可能性もあり、バンダ・アチェで登録するとやぶへびに終わるかもしれません。だいたい外国NGOは、国連か支援国政府との協力関係になければいけない、という報道です。
 けっきょく、ロスマウェ市長と北アチェ県知事に、直でお願いしておくことにしました。午後は、両者の訪問です。回答は「問題ない」とのこと。とりあえず推薦状なり、許可書なり書類をもらおうと思っていますが、実際にどうなるかはわかりません。
 どうしても北アチェ県に戻れなければ、友人たちに送金して、プログラムを動かしてもらうことになります。
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by NINDJA | 2005-03-15 01:59 | NINDJAの救援活動
○タナ・パシール郡、国軍に「包囲」

 昨晩、家に来たタナ・パシール郡の避難民のおじさんたちとともに、元の村に向かいました。プシジュッがおこなわれる予定でしたが、それ以上に、昨晩の事件後の様子が気になります。元の村のモスクのアンプ、スピーカー、マイクが津波で流されてしまったとのことなので、グドンで購入しました。
 はじめ、わたしたちと一緒に行けば、事件について外部に伝えたとして、逮捕されるかもしれないと、途中で降り再び合流するつもりでいたおじさんたちですが、そのまま村まで向かいます。
 しかし、キャンプを越え、村に向かう途中で、国軍に止められることになりました。学生たちを残し、わたしと友人だけが降ります。何をしに来たのか、どこに行くのかという質問に加え、顔つきも警戒しているのが明らかです。北アチェ県から全郡長に向けた手紙を2月に取得していたので、それを見せて、やっと通行を許可されました。ただし手紙は、軍分支部(Koramil)司令官が調べるというので取り上げられ、帰るときに取りに来いと命じられましたが。
 昨晩、避難民キャンプから「逃れた」人びとは、元の村のモスク周辺にいました。支援のアンプ、スピーカー、マイクをイマン(イスラーム指導者)に渡すと、彼は感極まってしまい、下を向きながら、途絶え途絶えに「わたしが責任をもって管理します。本当にありがとうございました」周りで、泣いている女性もいます。昨晩の事件で興奮しているのもあるのでしょうが、あとで友人から「ああやって直接、支援を受けたことがないから感極まったらしいよ」と言われました。
 さて、国軍に止められたこともあり、村に到着するのが遅くなってしまいました。この村では満潮の時間が来てしまったため、漁師たちはみなプカット・ソロンから戻ってきてしまっています。そこで、まだ漁に出ている人がいるという同じタナ・パシール郡のお隣の村まで行くことにしました。
 途中、別の国軍詰所で止められます。また同じ質問。同じように警戒されています。もう北アチェ県知事からの手紙はもってきていないし、さてどうしようかと思いましたが、すでに軍分支部司令官から許可を取ったと伝え、ここも通過できました。
 もうひとつの村では、人びとが集まって、顔を曇らせています。わたしたちのために、わざわざプカット・ソロンしてもらうのは申し訳なく、けっきょく、早々に引き上げました。
 帰り道、軍分支部司令官のところに顔を出すと、郡長が来ていました。わたしたちが、郡長に出頭しなかったこと、郡長を通じて支援をしなかったことで怒っているようです。かなり横柄な人で、これでは避難民からの信頼を得られないのも無理ないと思いました。「ここは危険な地域だ」というのですが、いったい、何で危ないと言うのでしょうか。
 軍分支部前では、キャンプから荷物をまとめ、ピックアップを借りて戻ろうとした人びとが、みんな止められ、キャンプに戻るよう命じられていました。自分たちの村にも戻れないというのは、いったい、どういうことなのでしょうか。
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by NINDJA | 2005-03-14 18:28 | NINDJAの救援活動
○県警出頭

 11日に新たに2人が到着し、県警に出頭しました(ちなみに11日には、男性学生2人が、ブラン・ニボン村でプカット・ソロンに参加させてもらいました)。今回は、 2月に取得していた北アチェ県知事とロスマウェ市長からの書類を持参し、わたしも一緒に出頭しました。そのせいか、県警諜報部員は、前回「避難民キャンプに行ってもいいが、元の村に行ってはいけない」と言っていたのが、今回は「援助が届いていない村があるといけないから、キャンプ以外の場所に行ってもいい」と変わりました。好き勝手な規則を自分たちでつくっているだけなわけです。
 さらに、シグリ県警からの情報として、「自由アチェ運動(GAM)が20日以降、国際NGOを襲撃するという情報があるから、夕方以降は出歩かないように」とのこと。こういうありえないことを言って、外国人に恐怖を与えるためなのか、それとも自作自演で、GAMが国際NGOを襲撃する事件をつくるのか。 前回出頭した8人分の書類をつくったということで、けっきょく1人5万ルピアずつ要求されていたため、40万ルピア支払って帰宅しました。

○軍事作戦犠牲者に奨学金供与

 10時から、スハルト時代の軍事作戦で夫を殺害された女性たちの子どもに対して、奨学金の供与をおこないました。これは、インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)が2000年からおこなっているプログラムで、現在、約70人の子どもたちに対して、毎月奨学金が供与されています。
 2003年5月に軍事戒厳令が布告されて以来、女性たちと2年間近く会うことができず、女性たちがわたしの顔を見て抱きついてきたとき、涙をこらえることができませんでした。津波後、北アチェ県に戻ってくることができるようになりましたが、女性たちが暮らす村には行けないでいます。彼女たちの村では、いまも軍事作戦が続いているからです。
 女性たちからは、奨学金について、「子どもの学用品を買えるようになってうれしい」「額は少なくても、すごくたくさんもらっているような感じがする」「もしおカネがなくても、わたしたちは友だち」という声が寄せられ、「これからも続けて欲しい」「高校までではなく大学まで供与して欲しい」という希望が
伝えられました。この報告を読まれているみなさまからのご支援もお願いいたします(詳細はホームページ)。

○ランチョッ村へのサウォッ贈呈式

c0035102_140415.jpg 女性たちと昼食をとったあと、ランチョッ村(バユ郡)でのサウォッ贈呈式です。ランッチョッ村に支援したのはサウォッ・サベェ55個、サウォッ・シラン45個。まずバユにあるキャンプに行き、網(ムイ)と竹の棒(ガガン)を車に乗せてから、避難民と村に向かいます。
 ランチョッ村に来たのははじめてでしたが、かなり破壊は深刻です。その廃墟のなかでの贈呈式後、避難民が式の一環として海に入ります。獲れたエビをお土産にもらって、帰宅しました。
 なお、この村で、なんにでも介入したがるおじさんは、一時消えていたようですが、日本人がたくさん詰め掛けたせいか、また登場しました。率先して、サウォッのことなど説明し、責任者のルスリさんは追いやられて、寂しそうです。

○タナ・パシール郡の避難民、「退避」

 こちらは乾季に入ったため、元の村まで行くと、全身土ぼこりだらけになります。2月に熱を出したのも、この土ぼこりでのどを痛めたことが原因だったようです。こちらの友人も、わたしが一時帰国しているときに、のどを痛めたのと疲労とで、2日間入院したくらいです。
 ランチョッ村から帰って、マンディ(水浴び)をして、夕食まで休憩していると、マグリブ(日没の礼拝)後、タナ・パシール郡の避難民が数人家にやってきました。わたしの顔を見るなり、「避難民が追い出された!」と血相を変えて言います。
 タナ・パシール郡の避難民は、この間、さまざまな問題を抱えてきました。1月末には、自由アチェ運動(GAM)に関与したと非難された避難民6人が逮捕され、この逮捕について報道されたために、6人の両親が脅迫され、2月10日には食中毒に遭い…。
 そして、この間は、郡の救援ポストのコーディネーターから多くの嫌がらせを受けていました。たとえばマグリブ中に救援物資を取りに来るように命じられたり(アチェではマグリブ中は外出せず静かにしている)、未明にスピーカーで「キャンプを片付けろ。お前たちは豚のようだ」と言われたり、避難民は自尊心を傷つけられてきました。
 今日は、避難民がバケツに水を汲み、テントで洗濯をしていたとき、このコーディネーターから怒られたそうです。女性たちは、マンディ場でも洗濯をしてはいけないと言われており、どこで洗濯をすればいいのか。その後、郡長がキャンプを見に来たとき、テントで洗濯をしている人がいなかったことから、面子を傷つけられたと思ったのか、このコーディネーターは避難民を殴ろうとして追いかけました。女性たちは泣き、もう耐えられないと、元の村に戻ったそうです。
 しかし、村まで行こうとした友人によると、すでに国軍が警戒していて、なかには入られなかったとのこと。明日、タナ・パシール郡で、サウォッ提供に際してのプシジュッ(儀式)がおこなわれることになっています。果たして、どうなるでしょうか。
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by NINDJA | 2005-03-13 00:36 | NINDJAの救援活動
○ブラン・ニボン村の避難民キャンプを訪問

 北アチェ県サムドゥラ郡クタ・グルンパン村、タナ・パシール郡クアラ・チャンコイ村の買い付けを、グドンのいちばでおこないました。学生8人とわたしは、グドンに避難しているサムドゥラ郡ブラン・ニボン村のキャンプで、値段が決まるまで待機です。ブラン・ニボン村は、ニンジャが一番最初にサウォッの支援をおこなった村です。
 グドンには、サムドゥラ郡の津波被災者たちが避難しており、ブラン・ニボン村のキャンプには、クタ・グルンパン村やサワン村からもおじさんたちが来て、さまざまな話をしました。
 この地域の人びとは、軍事戒厳令以降、海兵隊に出頭する義務が課せられていました(2月10日の報告を参照)。出頭は、5~7日に1度、メモ帳に名前、職業、日付などを記し、海兵隊がハンコを押します。さらに、海兵隊の詰所の前を通過して、漁船の番号を見せてから、漁に出なくてはならなかったそうです。
 おじさんたちが、「津波後、出頭義務がなくなった。村に戻っても、もうないだろう」と言っていたので、スヌドン郡ではまだ出頭義務があること、出頭した避難民が殴られる事件が起きていること(2月23日の報告を参照)を伝えると、みんな、アチェ語で「まだあるんだ…」と言い合って、一気に顔が暗くなりました。
 そして、津波以前、どれほどに国軍の圧力を受けていたか、「こんな話をしたら、夜には、自分は消えていただろう」と語ってくれました。「いまは外国人がいるからまだいい。外国人が追い出されると聞いているけれども、ジャカルタ(インドネシア政府)を通したら、援助など絶対に届かない。どうかアチェに残って欲しい」彼らの切実な思いです。
 わたし自身も、3月末以降もアチェで活動したいと思っていますし、津波が起きるまで2年間、北アチェ県を訪れられなかったときのような状態には戻ってほしくありません。アチェの人びとが、外国人の存在で、少しでも安心できる限り、国際社会はインドネシア政府に対して、訴えていかなくてはなりません。ただ、北アチェ県でも、津波被災地以外、つまり外国人が訪れることのできない地域では、いまも毎日、軍事作戦が展開されています。

○クタ・グルンパン村、クアラ・チャンコイ村買い付け

 グドンでの買い付けの値段交渉も終わり、キャンプからグドンのいちばに向かいました。学生8人は、いちばの人びと全員の注目を浴びています。わたしが支払いをしているあいだ、学生たちはいちばを回っていたのですが、戻ってきたときには数十人引き連れてくるほどでした。
 買い付け中、クタ・グルンパン村の避難民のおじさんが来て、サウォッではない漁具の支援を求められました。アチェ語だったため、内容をしっかり理解できているわけではないのですが、わたしたちが漁業局から支援を受け、かなり多額の資金を動かしていると思ったようです。
 わたしたちだけでなく、漁具の材料を売っている店主もあわせて、この支援が日本の人びとからのカンパであり、政府や財団などからの助成金ではないこと、津波以前から貧しく、津波後さらに貧しくなった人びとを第一に支援していることを説明しました。おじさんも、納得してくれたようです。
 後述しますが、実際に支援しているなかで、さまざまな問題に直面します。まったく問題が起きない支援をおこなうことは不可能だと思いますが、この支援を受ける人にも、受けない人にも、丁寧に説明し、納得してもらうことで、起きうる問題を最小限に抑えていこうと思います。

<クタ・グルンパン村>
サウォッ・サベェ 8個
・材料費 86万90000ルピア
・製作費(1個6万ルピア、半額のみ前払い) 24万ルピア
サウォッ・シラン 10個
・材料費 186万4000ルピア
・製作費(1個6万ルピア、半額のみ前払い) 30万ルピア
ジャラ 36個
・材料費 1022万ルピア
・製作費(1個8万5000ルピア、半額のみ前払い) 153万ルピア

<クアラ・チャンコイ村>
サウォッ・サベェ 28個
・材料費 111万6200ルピア
・製作費(1個2万ルピア、半額のみ前払い) 28万ルピア
サウォッ・シラン 54個
・材料費 1785万2000ルピア
・製作費(1個5万ルピア、4分の1のみ前払い) 67万5000ルピア

○タナ・パシール郡避難民キャンプを訪問

 グドンでの買い付けが終わり、ブラン・ニボン村のキャンプで昼食をごちそうになりました。支援する側と支援される側というだけでない関係を築けているからかもしれませんが、避難民の状況を知っているだけに、かなり申し訳ない話です。
 昼食後、タナ・パシール郡の避難民キャンプを訪問しました。クアラ・チャンコイ村のサウォッ製作について打ち合わせがあったためです。
 すでにサウォッの材料を支援していた東クアラ・クルト村、マタン・バル村では、製作もかなり進み、完成したサウォッでのプカット・ソロンがはじまっています。未明に漁に出て、キャンプの一角では、収穫された小エビが干されていました。
c0035102_3285184.jpg わたしたちの訪問を受けて、おじさん(というより、おじいさん)がサウォッをもってポーズを決めてくれます。いまでも現役、学生たちから歓声も上がりました。
 日本でカンパしてくださった方がたへのコメントを、と思い、2カ村の責任者になってくれたユスフさんにインタビューしました。「もっとも必要な支援をしてくれた」と絶賛、これではヤラセだと思われてしまいそうですが、とてもうれしい言葉でした。
 ただタナ・パシール郡のキャンプは、1月末に6人の避難民が逮捕され、その後も国軍の脅迫を受け続けているところです。マタン・バル村の避難民は、元の村に仮設住宅を建設されましたが、東クアラ・クルト村の場合、マタン・トゥノン村への再定住が決められています。海から離れたマタン・トゥノン村への再定住を、避難民たちは拒否しています。
 さらに再定住地では、国軍の監視詰所が建てられ、自由に移動できなくなるという懸念ももたれています。これは、ほかの村の場合でも同じです。そのため、避難民たちは、再定住したくないけれども、再定住を拒否すれば、国軍の暴力を受けるのではないかと心配しています。

○ランチョッ村のサウォッ製作の進捗状況

 クアラ・チャンコイ村の打ち合わせ中、バユ郡ランチョッ村から連絡が入ったため、最後にランチョッ村のサウォッ製作責任者のルスリさんのところを訪問しました。
 実は、この村、クタ・グルンパン村と並んで、支援の難しい村でした。わたしたちがルスリさんと話を進めていたところに、何でも自分が支配したがる村人が介入してきたのです。自分が海兵隊と関係が近いことをちらつかせたり、プカット・ソロンする際のゴム靴の値段交渉に口を挟んできたり、売名のためか村長を連れてきたり、ルスリさんが密かに泣いたくらいでした。
c0035102_3292115.jpg しかし、わたしが気になりながらも一時帰国しているあいだに、この支援はカネにならないと気づいたその村人は、消えてしまったようです。わたしたちが訪れたとき、ほとんどサウォッの製作は終わっており、言葉が通じない学生に、身振り手振りで、サウォッのつかい方を説明しているルスリさんは、とてもうれしそうでした。
 ランチョッ村のプシジュッ(儀式)は12日。週末から週明けにかけて、サウォッ贈呈と漁再開の儀式がつづきます。実際には、完成したサウォッで、人びとは漁に戻っているのですが。
 ランチョッ村の問題も解決し、試行錯誤しながらも、プカット・ソロン支援は順調に進んでいるようです。
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by NINDJA | 2005-03-12 03:30 | NINDJAの救援活動
○アチェでの活動再開

 1週間の一時帰国を終え、ロスマウェに戻ってきました。たった1週間、アチェから離れていただけなのに、なんだか、とても長く感じられる1週間でした。
 3月7日に、ジャカルタ入りしました。今回は、8人の学生も一緒です。上智大学では「ソフィア津波ボランティアーズ」、埼玉大学では「さいたま災害支援学生ネットワーク」という学生たちの団体が立ち上がり、スマトラ沖地震被災者のための支援活動をおこなっています。彼らが集めた寄付は、インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)を通じて、ロスマウェ市と北アチェ県の被災者に届けられています。
 8日、バンダ・アチェ、大アチェ県の被災状況を見てから、ロスマウェに戻りました。ニンジャの活動の再開です。この活動報告も再開です。

○県警に出頭

 本日(9日)午前中は、友人たちとこの1週間の進捗状況について確認し、今後の活動について話し合いました。わたしが一時帰国しているあいだに、北アチェ県サムドゥラ郡サワン村、プウク村に対して、プカット・ソロン(ブログでこれまでの活動報告をご覧ください)の漁具サウォッの材料を供与しました(会計報告は下記)。これで 8カ村に漁具の支援をおこなったことになります。
 また、すでに材料を供与していたタナ・パシール郡マタン・バル村、東クアラ・クルト村、ロスマウェ市ブラン・マンガット郡ジャンボ・メスジッド村で、材料が不足していたことが判明、追加の買い付けもありました。
 友人たちとの会議中、県警から電話が入りました。学生が出頭しなくてはならないというのです。ここでは、外国人の宿泊客について、宿が警察に届けなくてはなりません。届けを受けた警察が、出頭を求めてきたわけです。友人たちと相談し、学生の代表2人が全員分のパスポートをもって出頭することになりました。わたしは、宿ではなく、友人たちが事務所としてつかっている借家にいるため、出頭せずに様子見です。下手に出頭して、家が監視されたら、自由に活動できなくなるからです。
 1時間以上して戻ってきた友人の説明を聞いたのですが、けっきょく、県警が何を求めているのか、よくわからない。なぜ、北スマトラ州メダンの入管に出頭しなかったのか。2月に、わたしがメダンの入管でアチェ入域許可書(ブク・ビル)を申請したときには「ボランティアは不要になった」と言われています。なぜ、バンダ・アチェの州警察で出頭しなかったのか。報道では、3月26日以降も活動したい外国人は登録しなくてはならない、となっています。
 要するに、外国人がアチェで活動することを、インドネシア政府は望んでいないのでしょう。すでにUNHCRやIOM(国際移住機構)といった国連機関が「アチェには難民(Refugee)も移住者(Migrant)もいないから、 UNHCRやIOMがアチェで活動するのはおかしい」と国家警察から槍玉にあげられています。
 県警は、友人に対して、外国人が出頭しなかった場合、受け入れ側のアチェ人が懲役1年、罰金500万ルピアの刑に処せられるという、非常事態下の規則を記した書類を見せたようです。それを聞き、わたしも出頭することにしました。3月末以降も活動できるように、ロスマウェ市長にも連絡をとり、サポートしてほしいとお願いしています。
 けっきょく、学生は避難民キャンプに行ってもよい(ただし避難民の元の村に行ってはならない)という口頭の許可をもらうことができました。が、警察はカネも欲しかったようです。1人につき5万ルピア、そのつぎは全員で10万ルピア、友人が「10万ルピアもっていないので、いま5万渡して、あとで5万払いに来ます」と言ったら、5万ルピア(568円)まで値下がりしました。「わたしたちのあいだだけの話だよ」との言葉つきです。
 学生たちには、こちらの友人たちにリスクを負わせ、わたし自身(ニンジャ)の活動も制限される(わたしひとりで行動している限りは、こちらの人たちに紛れ込めるのですが、学生8人と行動するとさすがに目立つのです)とわかっていて、なおかつ友人たちが学生を受け入れた意味を、よく考えて欲しいと言いました。
 多くの避難民が「政府もNGOもデータばかり欲しがる」ことに不満をもっています。彼らは、単なる調査の対象でも、見物の対象でもありません。学生が、アチェまで来て、さまざまなことを見聞きしても、日本で何の活動もしなければ、彼らがアチェに来た意味はなくなってしまいます。それどころか、こちらの友人たちの活動を制限しただけ、という結果にもなりかねません。わたし自身についてもいえることですが、アチェと関わることで生じる責任があるのです。

○ブラン・マンガット郡のプカット・ソロン支援

 とりあえずは無事に県警への出頭も終え、いよいよ活動再開です。
 チュッ・ムティア病院に避難していたブラン・マンガト郡ジャンボ・メスジッド村の避難民たちが、援助を与えられなくなり、また再定住予定地であるムナサ・トゥノン村が海から遠いために再定住を拒否、テントをもって元の村のモスクの前に移動したと聞き、村を訪れることにしました。同じく病院に避難していたクアラ・ムラクサ村の避難民は、津波による倒壊をまぬがれた家に戻ったようです。この 2つの村はお隣同士で、ニンジャが支援したサウォッとジャラ(投網)もほぼ完成したとのこと。あわせて訪問しました。
c0035102_18525940.jpg ジャンボ・メスジッド村では、稚エビの養殖もはじまっていました。養殖をしているおじさんは、養殖池が津波に襲われ、1億ルピアの損害を受けました。その後、自分で養殖池の片づけをし、1000万ルピア借金して、100万尾の稚エビを購入したそうです。マッチ棒ほどの大きさまで育ったら、メダンで売ります。地元で売ると1尾20ルピア、メダンだと35ルピアになるからです。
 こういうおじさんを見ていると、実は、援助など必要ないのではないかと思います。人びとは、援助に依存しなくても、自分たちで生活を立て直す力をもっているのです。友人たちとも、わたしたちの支援は、あくまで彼らが自分たちで生活を立て直すきっかけづくりだと話しています。
 自慢話になってしまいますが、インドネシアの国営ラジオ局がバユ郡ランチョッ村の避難民にインタビューしたとき、避難民がニンジャのプカット・ソロン支援について「日本の、コがつく人から、サウォッを支援された。わたしたちの経済を立て直すための支援は、それだけだ。ほかは、みんなデータを集めていくだけ」と話してくれたそうです。ラジオ局の記者が教えてくれ、ぜひ録音を聞かせてもらいたいと頼んだのですが、カセットテープが足りないため、繰り返し録音するそうで、すでにこのインタビューは消されてしまったとか。
c0035102_18534960.jpg 閑話休題。ジャンボ・メスジッド村では、サウォッ・サベェを32、サウォッ・シランを11、ジャラを10支援しています。すでにサベェは16、シランは11すべて、ジャラは9完成したそうです。ここのサウォッ・サベェの網は黒、青の2種類、海底を滑りやすくするために(つまり埋まらないように)するために竹の棒の先端につけられる器具は、ヤシの実がつかわれています。同じサウォッでも、村によって材料が違うのは興味深いところです。
c0035102_1854398.jpg クアラ・ムラクサ村では、サウォッ・サベェを23、サウォッ・シランを18、ジャラを24支援しました。いまは波が高く、サウォッ・サベェで獲る小エビ漁には出られないのですが(小エビが流されてしまっている)、サウォッ・シランをつかってプカット・ソロンがおこなわれていました。潮の満干の関係で、いまは朝4時ごろ漁に出ているそうです。ブラック・タイガーも獲れ、今日の収穫は1世帯8万ルピアにもなったとか。お土産に、エビをビニール袋いっぱいもらってしまいました。
c0035102_1856097.jpg クアラ・ムラクサ村では、ちょうどジャラを製作していました。投網と言われても、まったく想像できていなかったのですが、実演してもらって、やっと納得です。網を広げた円周の部分が折りたたまれており、ここにエビが入る仕掛けになっているのです。
 今回、はじめて、アチェの漁村の暮らしを垣間見ることができたのは、わたし自身にとっても貴重な経験です。さらに、はじめて、物資を供与するという活動をしましたが、いままで援助がむしろ問題を引き起こすケースを見てきただけに、さまざまな不安がありました。本当にささやかな支援ですが、人びとが以前の活動を再開していくのを見ることができて、安心するとともに、かなり幸せな気分を味あわせてもらっています。これで、人権侵害がなくなれば、どれほどいいか!
 クアラ・ムラクサ村では、サウォッとジャラを受けた人びとが全員集まって、14日にプシジュッ(儀式)をおこない、一斉に漁に出ます。いまから楽しみです。

<サワン村>
サウォッ・サベェ 85個
・材料費 863万2250ルピア
・製作費(1個6万ルピア、4分の1のみ前払い) 127万5000ルピア

<プウク村>
サウォッ・サベェ 12個
・材料費 122万500ルピア
・製作費(1個6万ルピア、半額のみ前払い) 36万ルピア

計 1038万9750ルピア=11万8065円(1円=88ルピア)
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by NINDJA | 2005-03-10 18:56 | NINDJAの救援活動
 国連職員は9日、インドネシア政府から、自由アチェ運動(GAM)が津波被災者の支援活動をおこなう外国人医師を誘拐する恐れがあると警告したことを明らかにした。しかし政府は、詳細について明らかにしなかったという。(AP, 05/03/09)
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by NINDJA | 2005-03-09 12:00 | 外国軍・援助機関の活動
 保健相相談役ダイス・スジャフランは9日、政府がアチェと北スマトラでの地震・津波災害後の復興フェーズにおいて、外国人ボランティアの選別を国家調整庁を通しておこなう予定であると明らかにした。
 同氏によれば、選別はボランティアの計画や活動理由、貢献度など、一定の基準によっておこなわれ、国連に認可された団体のみに限られる。選別後、各ボランティアは計画書を提出し、政府によって調整がおこなわれる予定であるという。(TEMPO Interaktif, 05/03/09)
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by NINDJA | 2005-03-09 12:00 | 外国軍・援助機関の規制
 社会省は7日、3月13日からアチェ地震・津波による避難民に対し、生活保障を1日1人3000ルピア供与することを明らかにした。2005年末までの生活保障として、3732億7000万ルピアが予算配分されるという。
 社会省は、以前、1日1人あたり5000ルピア供与すると述べていた。しかし、これはコメを含む額で、すでにWFPからコメ支援があるために、3000ルピアに減らしたという。
 2月25日時点の避難民数は40万6156人である。(Kompas, 05/03/08)
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by NINDJA | 2005-03-08 12:00 | 被災状況
 アチェの人びとが、津波後の苦難を分かち合ってきた多くの外国人に別れを告げる日が近づいている。
 国家警察アチェ・タスクフォースは3日、3月26日以降は限られた数の外国人のみアチェに滞在が許されると発表した。国連、NGOおよびメディアで働く外国人は、その滞在が、もはや「現状に適さない」ため、アチェを離れなくてはならない。
 退去を迫られている国連機関は、国際移住機関(IMO)と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)である。世界保健機関(WHO)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、国連児童基金(UNICEF)および国連食糧農業機関(FAO)は引き続き現地で救援活動をおこなう。
 アチェ・タスクフォース長のT・アシキンは、「国連は、アチェに難民や移住民がいないことを理解しているはずだ。アチェにいるのは域内避難民(IDP)で、その対応は政府の任務だ。そのためIMOとUNHCRの滞在を見直した。警察は、彼らの活動がアチェの状況に適したものか監視する必要がある」と述べている。
 さらに、この制限を受けることがない外国人も、3月26日までに登録しなくてはならない。現在アチェでは、83カ国から140以上のNGOが活動している。10日前に登録受付がはじまって以来、820人の外国人が登録を済ませた。
 アチェの非常事態(民事戒厳令)は、5月19日までつづく。アチェ州警察長官で、非常事態当局責任者のバフルムシャ・カスマンは、警察が「その安全のため」外国人の移動を制限すると述べている。(Jakarta Post, 05/03/04)
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by NINDJA | 2005-03-04 12:00 | 外国軍・援助機関の規制