2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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○警察に復讐(できるかな?)
 9月4日午後からスヌドン郡に行きました。新たに塩づくりをはじめたマタン・ラダ村の人びとと、器具買い付けの日にちを相談するほか、いくつかの村で追加の漁具支援を頼まれており、そのデータをとりにいくためです。
 マタン・パニャン村の被災男性、我が家に住む女の子2人、スタッフ、わたしと5人でアチェ音楽を聴きながら、気分よく車を走らせていると、ロスコン郡警察の一斉検問です。運転免許証、車両証を提示すると、一人の警官が「これはサバンの車だ。○○証はどこだ?(○○はあれこれ変わったので、結局わからず)それがなければ、違法車と判断するぞ」といきなり怒鳴ってきました。ほかの警官は「前進してください」と言っているにもかかわらずです。
 たしかに、わたしの車はサバン自由貿易港から入った中古車ですが、プレートナンバーはアチェ内しか運転できないNAではなく、州外に出られるもの。書類不備でもない。納得できないわたしが説明を求めると、「なんだ、お前は! 威張りやがって!」とさらに怒鳴られます。気の早いわたしも怒って、「(ロスマウェ)市長に電話する」と脅すと、「なんだ市長って、お前の親戚か?」。さらにこの警官の名前を尋ねると、「なんだ、お前は!」とまたまた怒鳴られます。
 無視して市長に電話したのですが、ちょうど電話は圏外。バンダ・アチェで車を探してくれた友人に電話しているあいだに、この警官は隣に座った友人に「携帯の度数がもったいないだろう。コーヒー代を払ったほうがいい(ここは小声)」「俺が発砲したら、住民がかわいそうだろう(なんの関係があるのか!)」などと言いつづけていたようです。
 それを知らないわたしが、冷静に「やはり、わたしの車は問題がないようですが、いったい何が足りないのですか」と質問。本当はカネ目当てなのに、わたしにそれを言えない彼は、「俺の忍耐もここまでだ。署に来るのか、ここで解決したいのか」と怒鳴るだけ。さらにプッツンきてしまったらしく、防弾チョッキで隠されていた胸章を見せ、「これが俺の名前だ!」
 友人と2人で、署に行く場合の手続きを聞いたあと、「ここで解決とはどういうことですか?」とわかりきった質問をすると、「要するに、和平ということだ!」
 というわけで、いくら払えば妥当かわからないわたしは、あとで友人に怒られるほどの額(6万ルピア=650円くらい)を払ってしまいました。でも悔しいので、ロスマウェ市長などなどに、このジャワ人警官の名前を送りつけました。ロスマウェ市長は「いまバンドゥンにいるが、ロスマウェに戻り次第、県警署長と話す」と言ってくれましたが、さてどうなったか。
 それにしても、こんな不合理なことを、アチェの人びとは日常的に忍耐しているのだと思うと、本当に腹が立ちます。この警官は、わたしが外国人だと認識できていなかったようだけど、わたしは外国人であり、いざというときはおエラいさんに頼める身だからいいですが、そうでない人びとは泣き寝入りです。下手にさからって、自由アチェ運動(GAM)と非難されれば、命の保証もないわけですから。あーあ、和平はどこにいった?

○ジャファルの死から5年
c0035102_1985123.jpg 9月5日はジャファル・シディックの墓参りに行ってきました。5年前の8月4日、北スマトラ州メダンで誘拐され、9月になって遺体で発見された人権活動家です。誘拐される直前には、日本にアチェ問題について訴えに来てくれました。誘拐されたとわかったのも、わたしとの約束に現れなかったことがきっかけでした(詳細は『アチェの声』をお読みいただけると幸いです)。
 9月5日は、当時発見された遺体がジャファルのものではないかという報道がはじめてあった日です。ジャファルが殺害された日がわからないため、埋葬された8日が「命日」になるのかもしれませんが、8日にはロスマウェを発たなくてはならないため、5日にしたのです。
 2年間の戒厳令中は北アチェ県に来られませんでしたので、ジャファルの墓参りも 3年ぶりになります。5年前の埋葬から考えると、隔世の感があります。メダンから遺体が移送されるというので、20時ごろジャファルの家に向かいました。当時は20時というと、怖くて外に出られない時間でした。車も人もいないなか、ベチャに乗ってジャファルの家に向かったことを思い出します。
 ジャファルの家には「2005」とペンキで大きく描かれています。これは5年前からあったものでした。ジャファルが描かせたというのですが、なにを思ったのでしょうか。2005年に和平合意が結ばれるという予感があったのでしょうか。

○「われわれは誰をも疑っている」
 9月6日、西バクティア郡に行ってきました。帰国前に、海兵隊に出頭するためです。津波被害を受けたほかの地域は問題ないのに、なぜ西バクティア郡だけ出頭を命じられるのでしょうか(8月28日の活動報告を参照)。
 出頭して話をしていると、「作戦をしている地域について、安全だと考えたことはない」「われわれは誰をも疑っている」「ここの人びとも笑っているが、実際には恐ろしいものだ」といったことばが、海兵隊員から飛び出します。
 和平でしょ? 作戦はしていないでしょ? なんて聞いても、通用しないし、住民に迷惑がかかるだけなので、ヘラヘラ笑いながら、海兵隊が飼っている犬をかまっていました。この犬、かわいそうなことに、わき腹に「5」と大きく毛が刈られていました。海兵隊第5大隊の意味ですね。
 ロッ・ウンチン村のコーラン詠みの施設は、ほぼ完成に近づいていました。あとはペンキを塗るだけです。村の大工さんと、水道についても話し合い、被災者支援のほうは順調です。
 被災者から、大量に干エビをもらって帰りました。わたしが日本にもってかえれるように、前々から被災者のあいだで集めていてくれたそうです。でも、結局冷蔵庫に入れたまま忘れてきてしまいました。おじさん、ごめんなさい。

○そしてロスマウェ発
 7日はラパ・イ(太鼓)とスルネカレー(笛)の練習。スルネカレーを吹くには、息を吐きながら吸うという、高等な呼吸法が必要です。飽きっぽいわたしは、たぶん挫折するでしょう。ラパ・イには2種類あり、わたしが練習したのは、小さなラパ・イ・プサンガンです。4種類の音を出すことができます。ラパ・イだけでも、スルネカレーだけでもイマイチなのですが、これが組み合わさると、なんとなく哀愁漂うアチェの伝統的音楽になります。
 ラパ・イとスルネカレーを抱えて、8日はロスマウェ出発です。あっという間の1カ月でした。「津波のおかげで」北アチェ県に戻ってくることができるようになり、今年に入り、大学の休みの時期にはずっとアチェにいます。日に日に、日本から切り離されていく自分を感じています。日本に戻って適応できるのでしょうか。
 本当はジャタユ機でロスマウェ→メダン→ジャカルタと飛ぶはずでしたが、技術的理由でジャタユのフライトがなくなり、メダンまではバスでした。警察の違法徴収が増えているのが驚きでした。
 バスの話題は、治安部隊の違法徴収とマンダラ機事故。マンダラ機には2トンのドリアンが積まれていたため、重量オーバーで離陸できなかったというのです。マンダラ職員がカネのため、ドリアンをスマトラからジャカルタに送ろうとしたのが原因というのですが…。
 現在、インドネシアは石油危機でもあります。いつの間にか石油輸入国となり、また経済立て直しのための燃料補助金削減→燃料費値上がりも問題になっています。が、実は、どうも国営石油公社(プルタミナ)、治安部隊あたりがグルで、石油を横流ししていたようです。最近のホットなニュースです。
 こういうニュースやら噂話やらを聞いていると、インドネシアが国家として、それでも成立しているのが不思議にすらなります。かなりの破綻国家だと思うのですが、ジャカルタは高層ビルが燦燦と輝き、ロスマウェからのおのぼりさんであるわたしには、同じ国のなかとは思えない別天地だったのでした。
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by NINDJA | 2005-09-10 21:11 | NINDJAの救援活動
 15日の自由アチェ運動(GAM)からアチェ監視使節団(AMM)への初期段階の武器を引き渡しの確認のため、インドネシア国軍が関与する予定である。しかし、武器引渡しの場所と方法については、まだ詳しくは決まっておらず、AMM、GAMおよび政府は10日の会合で決定される予定である。この決定に関しては、ヘルシンキの合意事項の北アチェ住民に対する説明の際に議題となった。
 北アチェで9日に開かれた会合では、和平の同意にまだ従っていないGAMの人間がいると、あるひとりの村長が不満を述べた。彼らはなお強奪しているという。それとは逆に、何人かの住民は、国軍に分離主義者の運動に関与していると疑われ、家族が国軍の詰所に拘束されていると訴えた。
 それらの訴えを受け止め、バンバン・ダルモノ少将は、共同で調印されたヘルシンキの合意事項の項目を、すべての側が遵守するよう要請した。また、同氏は武器の引渡しの過程に国軍も関与すると確言した。「一緒に武器の数を数える、国軍の代表がいる」と軍事戒厳令時におけるアチェの作戦司令部司令官は述べた。(Liputan6.com, 05/09/09)
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by NINDJA | 2005-09-09 12:00 | 和平への動き

●東アチェで誘拐事件

 アチェ警察が4日に述べたところによれば、依然としてアチェにおいては住民に対する誘拐や強請の事件がおきているという。
 数日前には、東アチェ県ダルル・アマン郡の保健所 の 7人の職員が、予防接種をおこなって車で保健所に戻る途中に民間武装集団によって誘拐されるという事件が起きた。武装集団は銃身の長い武器を携行しており、7人の職員は、ブラン・ブケト村地域の木造の施設に連行され、それぞれ100万ルピアの税を要求されたという。
 また、東アチェ県バンダ・アラム郡ベンテン村の住民は、320万ルピアのカネを武装集団によって強請されたが、カネの持ち合わせがなく、武装集団によって負傷させられた。(Antara, 05/09/04)
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by NINDJA | 2005-09-04 12:00 | その他
 コフィ・アナン国連事務総長は1日、インドネシア政府と自由アチェ運動(GAM)によって8月15日に覚書が調印されたこと、またスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領が、覚書に従って、1424人の受刑者(958人はアチェ在住)を釈放したことも歓迎すると述べた。さらにインドネシア政府が1300人の兵士をアチェから撤退させることに勇気づけられると語った。(Jakarta Post, 05/09/03)
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by NINDJA | 2005-09-03 12:00 | 和平への動き
8月31日:マタン・スリメン集落で洗剤10袋、石鹸5個を全29世帯に供与
9月1日:ロスマウェで石油タンカー火災

○「貧乏人の養殖池」

 今日は、サムドゥラ郡ですでに支援の終了した村々の様子を見に行きました。まわったのは、水道を敷設した西ランチャン村とカンプン・ラマ集落、そしてサウォッと出会うきっかけとなったブラン・ニボン村です。
 サムドゥラ郡の郡庁所在地であるグドンから、村々をつなぐ郡横断道路に入ると、必ず誰かからか挨拶されます。2月末から3月にかけて漁具を支援した村の人びとです。ほかと比べて支援が届きやすく、多くが自分で掘っ立て小屋を建て、元の村に戻って生活を立て直したサムドゥラ郡については、マタン・スリメン集落をのぞいて支援を終了しました。それでも、いまも人びととの交流はつづいています。
 西ランチャン村のアイさんは、友人たちの「養殖池仲間」です。友人たちは、助成金に頼らなくても済むNGO、助成金がなくなって給料がなくても活動を継続することを目指しており(話は横道にそれますが、実際に給料がない時代は各自村からコメを運び込んで食いつないだのでした)、ほかの NGOと比べると雀の涙の薄給から、ささやかなビジネスをしています。そのビジネス(?)のひとつが西ランチャン村の養殖池。アイさんが所有する養殖池で、エビとミルクフィッシュを育ててもらっています。西ランチャン村の人びとと、養殖を通じて、つきあいつづけるという目的もあります。
 そもそも養殖池を所有しているというと、それだけで金持ちのイメージだったのですが、それだけではないようです。先祖から土地を受け継ぎ、水田だったところを養殖池にし、小規模の養殖を営んでいる人もいます。アイさんもその一人です。
 同じような養殖池のあるマタン・スリメン集落の人びとは、「貧乏人の養殖池」と笑います。津波後、ジャカルタなどに住む金持ちの養殖池が早々と復旧する一方で、「貧乏人の養殖池」は、人びとが自分の手で掃除し、あぜ道をつくり直し、池に入れる稚魚や稚エビの資本を借金し…と時間をかけて復興への道を歩みます。 しかし北アチェ県の養殖池は、すでに集約池で土地が破壊され、エビ養殖としてはつかえなくなっているところが多いようです。西ランチャン村でも、エビが病気になってしまいました。当たれば儲けの大きいエビ。エビ養殖は博打のようです(そして、わたしの友人は博打に負けたのでした)。
c0035102_19224373.jpg アイさんが、養殖池のミルクフィッシュ(こちらは無事だった)をジャラ(投網)で獲ってくれました。2尾もらい、我が家の夜ご飯にします。

○被災者同士の村を越えたつながり

c0035102_19232076.jpg ブラン・ニボン村のイドリスさんは、わたしたちにプカット・ソロンのことを教えてくれた漁民です。より貧しい被災者を支援したいという、わたしたちの気持ちを理解してくれたうえ、自分の村だけでなく、わたしたちが気づかない被災地域についても知らせてくれ、いまにいたるまで協力しつづけてくれています。「ハンセン病の村」として隔離されてきたマタン・スリメン集落の存在も、そして集落でプカット・ソロンする漁民がいることも、イドリスさんがいなければ知らずに終わっていたかもしれません。友人の一人(男)は、イドリスさんを父のように慕い、「ワリ(保護者、後見人)」と呼んでいるくらいです。
 イドリスさんの家でヤシの実とお菓子をいただきながら、おしゃべりです。偶然、タナ・パシール郡西クアラ・クルト村(ハンセン病の村)のワハブさんが通りかかり、ワハブさんも加わります。柵について、会合後問題になっていないか聞くと「大丈夫」との返事。一安心です。
 さらに西バクティア郡ムナサ・ハグ村のアブドゥサラム(アブドゥルサラムではない、と本人が強調。GAMメンバーにアブドゥルサラムという名前があるため、間違えられると困るからです)さんまで来ました。
 支援の話、村の状況など、話したいことはつきません(が、アチェ語の会話なので、悔しいことに、わたしには部分的にしかわからない!)。こういう雑談から、わたしたちの支援で問題が生じていないか、どのような点に気をつけるべきか知ることができます。

○海兵隊が駐屯するカンプン・ラマ

 最後にカンプン・ラマ集落です。水道を敷設したあと訪れていなかったので、どうなっているか気になります。
 ここでは、川から3つの貯水槽まで水を引いています。が、なんと1つしかつかわれていない! しかも川からもっとも遠い貯水槽までのパイプが掘り起こされ、はずされています。
 実は、養殖池と道路の整備のために重機が入ることになり、パイプを傷つけないように掘り起こしていたのです。人びとに「一番端の水が塩からいのだけど」と不満をぶつけられたのですが、わたしにはなすすべもありません。
 それにしても、なんとなくカンプン・ラマ集落では、居心地の悪さを感じます。村に親しみがもてないというか、人びとと距離を感じるのです。なぜか異様な村です。
c0035102_19235693.jpg その理由かもしれないものが、あとで判明しました。なんと村の端、川沿いにスラバヤ出身の海兵隊が詰所を建てていたのです(写真は子どもをダシに撮影した海兵隊詰所)。ボランティアをしてくれている女子大生(父親を国軍に殺害された)が、「彼らがいたら、そりゃ異様になるよね」と一言。もちろん因果関係は証明できません。
 海兵隊のトラックの出入りが激しかったため、川にもっとも近い貯水槽へのパイプの調子も悪くなっていました。それで現在1箇所しかつかえなくなっていたのです。
 村の男性に「一番大事な祈祷所の前の貯水槽がつかえるから」と言ってもらいましたが、残念です。重機による整備が済んだら、村の人びとがパイプを設置するとのこと。そのときに再度見に来たいものです。
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by NINDJA | 2005-09-03 02:20 | NINDJAの救援活動
 国会第1委員会は、ヘルシンキで調印されたアチェ和平覚書(MoU)における記述にもとづいて、外務省がアチェ和平プロセスを監視するよう提案した。ハサン・ウィラユダ外相との会議において国会第1委員会はまた、アチェ和平監視使節団(AMM)の活動に対する規定をつくるよう外務省に要請した。外相は、外務省はアチェでの和平監視者に対する規則をつくる予定であると答えている。
 いっぽう、国会第1委員会のエフェンディ・ホイリは、インドネシア共和国の統一と一体性について、GAM指導者の公約に対して疑念をもっていることを明らかにした。
 このホイリの意見に対しは、ミルワン・アミルが抗議した。「わたしはこのとき、インドネシア共和国単一国家との融合のためのGAM側の公約を疑う必要はないと思っている。紛争は、すでに非常に長くおこなわれた。GAMは争うことに疲弊している。アチェからの民衆の代表として、わたしはヘルシンキのMoU合意を厳守するためにGAM指導者の公約を疑わない」とミルワンは語っている。(Acehkita.com, 05/09/02)
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by NINDJA | 2005-09-02 12:00 | 和平への動き