2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
カレンダー

<   2006年 02月 ( 26 )   > この月の画像一覧

 インドネシア環境フォーラム(WALHI)は28日、アチェ復興庁(BRR)による道路建設事業のうち、2つのルートが森林保護区域を通過するものであることから、再検討を要請したことを明らかにした。計画中の2つのルートは、バンダ・アチェ=ムラボー間、ジャント=クマラ間のものである。WALHIアチェ事務所のヒンドン代表によれば、これらは保護区域を迂回するルートに十分変更可能であるという。(TEMPO Interaktif, 06/02/28)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-28 12:00 | その他
 アチェ監視使節団(AMM)のフェイ・ベルニスは27日、欧州連合(EU)がAMMの派遣期間を3カ月延長して6月15日までとする決定をくだしたことを明らかにした。
 当初AMMの任務は3月15日で終了することになっていたが、インドネシア政府は15日、AMMの派遣期間延長を求めていた。(Jakarta Post, 06/02/27)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-27 12:00 | 和平への動き
 アチェ・ニアス復興庁(BRR)は27日、住宅建設のため、産業造林地区からの木材をしようすることをを決定した。MS・カバン森林相は、短期的にはアチェ州で森林管理権を所有する約8社から必要な分の木材が供与される予定であると明らかにした。
 政府は、住宅を建設するために約170万tの木材が必要であると想定している。「近いうちに約10万立方メートルの木材が必要だ」
 カバンは産業造林からの木材だけを使用すると語っている。また、この産業造林から供与された木材はアチェの再建のためだけに利用するという。「ほかのことにつかってはいけない」
 さらに政府は、1年に伐採する量を決定し、規律を破った際には、森林事業権が没収されるという。(TEMPO Interaktif, 06/02/27)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-27 12:00 | その他
 インドネシア環境フォーラム(WALHI)は27日、大統領と林業相に対し、アチェの森林管理権の供与を停止するよう求めた。WALHIアチェ事務所チュッ・ヒンドン代表によれば、アチェでの森林事業権( HPH)と産業造林事業権(HPH-TI)の申請者の多くは、環境規則に違反し、自身の義務を果たそうとしていないという。
 ヒンドンは、すべての申請者が許可を受ける前に、確実に実行可能性調査と環境影響評価が実施されることを求めた。これまで、林業省による許可の供与は、オープンでない傾向があり、供与の基準は学術的調査ではなく、関係機関への根回しであるという。
 ヒンドンは、許可を得たトゥサム・フタン・レスタリ社の操業において、直径20cm以下のピヌスの木(松)の伐採や傾斜が45%あるプサンガン川上流域での伐採など多くの規則違反をおこなっていると明らかにしている。いっぽう、まだ許可を得ていないにも関わらず、マンドゥム・パヤ・タミタ社は2006年9月から操業しているという。(TEMPO Interaktif, 06/02/27)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-27 12:00 | その他
○巨大井戸の贈呈式
 25日、西バクティア郡ロッ・ウンチン村の巨大井戸の贈呈式がありました。住民たちからの要請です。朝から、男性たちは、ヤギ3頭を解体し、若いバナナの実、カブなどと煮込んで、カレーをつくるのに大忙しです。
 アチェでは、犠牲祭など特別なときにヤギを解体します。解体するのは、イスラームの祈祷を欠かさず、村で尊敬されている男性です。ここでも、村のトゥンク(イスラーム指導者)が祈りの言葉を唱えながら、ヤギの首を斬ります。日本のと場問題について少し話すと、アチェの友人は驚いていました。
 贈呈式は10台のラパイ・パセ(大太鼓)ではじまります。05年8月、和平合意の調印を願って、バンダ・アチェから東アチェ県まで、ラパイ・パセの行進がありました(05年8月8日の活動報告を参照)。このとき出会った、もっとも優れたラパイ・パセの打者グループが、実はわたしたちが支援した西バクティア郡の村々の出身だったのです。ラパイ・パセの響きにとりつかれたわたしは、彼らのラパイをもう一度聴きたいと思っていました。その夢がかなったことになります。
c0035102_211575.jpg 小柄なグループの代表は、軽々とラパイ・パセを叩いています。どうして、こんなに太く体を震わすような音が出るのかわからないほどです。ラパイ・パセでは2種類の音しか出せませんが、リズムを少しずつ変えながら、ときに5台ずつ競いあいながら、男性たちはラパイ・パセを叩きつづきます。何時間聴いていても、飽きることはありません。
 10人によるラパイ・パセの演奏が終わったあとも、村の男性たちは交互にラパイ・パセを叩いています。みな、本当にラパイ・パセが好きなのです。25日夜中、ロスコン郡チョッ・ギレッで、チョッ・ギレッのグループとラパイ・パセ合計50台の競演があるため、西バクティア郡のいいラパイ・パセは温存されていることがわかりました。男性たちに誘われ、みんなで夜中、チョッ・ギレッまで行くことにしました。
 ラパイ・パセのあとは、制服を支援した女子中学生による小さなラパイと踊り、歌の披露です。正直、ラパイ・パセの迫力にはかすんでしまったかもしれません。巨大井戸のプシジュッ(清めの儀式)が終わり、いよいよヤギ・カレー。バケツに入れられたカレーが、あちらにもこちらにも配られ、すごい勢いで消費されていきます。みんな、血圧が上がらないか、ちょっと心配です。

○マタン・スリメン集落でのゴトン・ロヨン
c0035102_2122528.jpg 西バクティア郡での贈呈式後、マタン・スリメン集落です。雨季でトラックが入れず、道路の修復が延び延びになっていました。
 土砂と鍬、スコップなどはわたしたちからの支援ですが、実際の作業は集落の人びとのゴトン・ロヨン(相互扶助)でおこなわれます。ハンセン病で手や足の第一、第二関節までなくした男性も、女性も、トラックが石混じりの土砂を運んでくるたびに、鍬をもって均しに行きます。
 実は、生まれて30年以上、鍬をもったことがなかったわたしは、確実に役に立っていませんでした。女性たちには「あの格好!」と大笑いされたぐらいです。1~2時間程度でしたが、集落の人びとと一緒に汗を流し、一緒に涼むのは、やはり楽しく幸せです。

○再びラパイ・パセ
 汗だくだくになって家に戻り、マンディ(水浴)し、少し休憩してから、チョッ・ギレッに向かいます。エクソン・モービルのガス田や、ジャワ人移住村から近いため、道路は舗装されており、ほかの地域のことを考えると不思議なほどです。
 ラパイ・パセの競演は23時すぎにはじまりました。簡単に組まれた棒からラパイ・パセが吊るされ、その周りには男性たちが集まっています。周囲どころか、ラパイ・パセの下にしゃがんでいる男性たちもいます。すごい熱気です。
 ラパイ・パセの演奏については、もはや言葉がありません。地面が揺れるほどの迫力でした。渾身の力を込め、ラパイ・パセを叩きつづける男性たち、その響きに興奮している男性たちの姿を見て、アチェはマッチョ社会だとつくづく実感してしまいました。国軍・警察部隊が、アチェでの任務に就くことを恐れたのも理解できるような気がします。

○思い出をたどったパヤ・バコン
 26日はパヤ・バコン郡に行きました。2001年8月、かなりギリギリの思いをしながら、人権状況の調査をした地域です。そのときに村々を案内してくれた3人のうち1人は殺害され、1人は米国に亡命しました。軍事作戦の激化にともない、以来、この地域を訪れることはできませんでした。
 4年半前と比べると拍子抜けするほどに、平穏な道のりです。エクソン・モービルの第1~第4クラスターでも、国軍の姿はほとんど見られません。警備するのも、国軍から警察になっています。
 友人たちと4年半前に訪れたときのことを思い出しながら、パヤ・バコン郡へと向かいました。なかでも、もっとも印象に残っているのは、家で寝ているところ、国軍部隊に包囲され撃たれたおじいさんです。妻は即死、おじいさんは額から銃弾が入り、片目を失いました。そのおじいさんも、第1軍事戒厳令(03年5月~11月)のときに亡くなったそうです。オランダ時代から平和なアチェを知ることなく死んでいったおじいさんは、最期に何を考えたのでしょうか。おじいさんの家は、いまはもうなく、野原になっていました。
 アル・ロッ村では2000年、03年の2回、国軍兵士が女性たちをレイプする事件が起きました。昨年3月に彼女たちと会い、それ以来、彼女たちの子どもに奨学金の支援をしています。彼女たちもまた、平和だったアチェの記憶がありません。彼女たちが物心ついたときには、北アチェ県は軍事作戦地域に指定されていました(89年~98年)。はじめての平和な状況が長くつづいてほしい。それが彼女たちの思いです。
[PR]
by NINDJA | 2006-02-26 21:00 | NINDJAの救援活動
 ヒダヤット・ヌル・ワヒド国民協議会議長は24日、スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領が、今年のノーベル賞受賞者の候補になっていることについて、適切な評価であると述べた。これは大統領個人にのみ与えられるのではなく、アチェにおける和平を生み出した国の指導者として与えられている評価だという。ヒダヤットは、ノールウェーのノーベル賞委員会に感謝の意を表するとともに、アチェ和平に関して、ユスフ・カラ副大統領が自由アチェ運動(GAM)と政府とのあいだでの交渉を技術的に成功させたとも述べている。(TEMPO Interaktif, 06/02/25)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-25 12:00 | その他
 欧州連合(EU)は27日の外相会議で、インドネシア政府とアチェ反乱軍のあいだの和平合意状況を監視するためのEUの率いるアチェ監視使節団(AMM)の滞在延長を認める予定である。オーストリアEU府の文書によれば、EU外相は、AMMの任務を 6月15日までの3カ月間延長するというインドネシア政府の要請を受け入れる方向だという。なおAMMメンバーは200名で、昨年8月から任務を遂行している。(Jakarta Post, 06/02/25)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-25 12:00 | 和平への動き
○泥棒に遭う
 この1週間、津波被災者支援活動が少し停滞してしまいました。20日未明、我が家に泥棒が入ったのです。朝4時ごろ、友人の「泥棒! 泥棒!」という声で目が覚めました。隣の部屋の窓をこじ開けられ、窓についている鉄柵のあいだから、活動を記録するために東京からもってきていたハンディカム、デジカメなどを盗まれました。友人たちの身の安全のほうが大事ですので、物品が盗まれたぐらいで済んで幸いではありました。
 泥棒後、さまざま「興味深い」話がありました。我が家の近くのある地域が、「泥棒の巣窟」と言われていること。ここに住む知人の話では、麻薬や大麻の売買もおこなわれており、買いに来ているのが国軍兵士や警察官だということ。つまり国軍・警察のバックアップを受けている彼らが、捕まるわけはないようです。
 盗難届を出しても、警察の対応が笑えます。保険のために、報告受理書を出してもらおうと思ったのですが、警察にあるパソコンは古いし、パソコンもつかえないらしく、以前の報告受理書に上書き+上書き保存するだけ。以前の報告受理書は、どこにいってしまうのでしょう? さらにカネまでせびられ、予想どおりの対応です。ちなみに、受理してくれた警察官、噂では麻薬漬けだとか。たしかに、言動は奇妙でした。

○3年ぶりに内陸部の村へ
 03年5月の軍事戒厳令以降、04年12月の津波まで、わたしは北アチェ県に来ることができませんでした。外国人の入域が事実上禁止されていたためです。津波支援で北アチェ県に戻ることはできましたが、津波被害を受けた海沿いの地域に限られていました。
 21日、3年ぶりに、内陸部の村に行くことができました。久しぶりに会った女性たちは、本当に暖かく迎えてくれました。
 お茶をごちそうになり、『アチェの声』(pp.80~82)で登場したピナン倉庫をまで、連れて行ってもらいました。男性が後ろ手に縛られ、目隠しされ、拷問された場所です。
 ピナン倉庫からの帰り道、2人の女性が左右から、軍事戒厳令中の体験を語ってくれましたた。1人は、父親を殺され、弟が自由アチェ運動(GAM)メンバーになり殺された経験をもっています。彼女はGAMと結婚し、軍事戒厳令中、夫の身代わりに監禁され、後ろ手に縛られ、目隠しされ、レイプされそうになったそうです。夫をおびきよせるためだと言われました。
 もう1人は、夫が庭でヤギ小屋をつくっているのを、国軍を監視していたと言いがかりをつけられ、暴行されました。もう年老いていて、いまも殴られ、蹴られたところが痛むそうです。
 2人とも、和平になってうれしいが、つづくとはまだ確信できないと言っていました。

○「傷つけられたけど、癒されていない」
 22日、我が家に軍事作戦の犠牲となった女性たち(計6カ村)が集まりました。津波前から、インドネシア民主化支援ネットワークは、地元のNGOと協力して、国軍に父親を殺害された子どもたちに奨学金を出しています(詳細はホームページを参照)。和平後の現在、この女性たちにどのような支援が必要なのか、女性たちのグループが自立していくために何が必要か、女性たちと話し合いました。
 会議の前、女性たちに和平について尋ねました。全員が口をそろえて「うれしい」と言いました。しかし、和平について満足しているわけではありません。彼女たちは、「傷つけられたけど、癒されていない」とはっきり言いました。国軍にレイプされた女性、夫を殺害された女性、夫の身代わりに拷問された女性…。彼女たちは、和平がつづくことを期待しつつも、まだ不安感をもっています。

○「エンジンの音を聞くと悲しい」
 22日夕方には、津波被災地であるサムドラ郡ブラン・ニボン村の漁民のおじさんが遊びに来ました。彼も、テレビのニュースで国軍が和平について語るのを聞いて、「和平がつづくとは思っていない。必ず、また(紛争が)起きる」と考えているようです。
 なおインドネシアでは、05年10月、燃料費が値上げになりました。IMFの構造調整政策のなかで、燃料費補助金がカットされたためです。値上げにともない、諸物価がほぼ2倍に上がり、人びとの暮らしを圧迫しています。
 ブラン・ニボン村の漁民のおじさんの場合も同じです。津波被災者への支援で漁船を得たのですが、これまでの軽油から灯油に切り替えざるを得ませんでした。彼は「エンジンの音を聞くと悲しくなる」と言います。
 燃料代を払うと、1日の収入が1万5000ルピア程度しか残らない、ときには赤字になることもあり、いまや漁具を売る店に70万ルピアの借金を抱えているそうです。
[PR]
by NINDJA | 2006-02-23 09:11 | NINDJAの救援活動
 アチェ州議会アドボカシー・チーム、アチェ州政府、および専門家チームは、アチェ行政法案が、ヘルシンキで結ばれたインドネシアとGAMの和平合意覚書のように、アチェ社会の希望に沿った法律になるよう、ただちにジャカルタへ赴き、政党の指導者や有力者にロビー活動をおこなう予定である。
 州議会アドボカシー・チーム代表のアブドゥルラ・サレーは、「このチームの目標は、アチェ行政法案が、アチェ州議会から提案された同法案の草案どおりに法制化されることであり、アチェ州議会が提出したアチェ行政法案の条項が削除されないよう要請することである」と述べた。
 またアドボカシー・チームは、政党幹部やメガワティ前大統領、ワヒド元大統領、アミン・ライス前国民協議会議長、ハムザ・ハズ元副大統領、および国会と国民協議会の指導者にロビー活動をおこなう予定である。
 いっぽう、アチェ行政法案特別委員会代表でアドボカシー・チームのメンバーでもあるアズハリ・バシャルは、メガワティが選挙キャンペーンの際、もし自身がこの国の指導者となれば、アチェで一滴たりとも地を流させないと約束したことについて、ロビーの際に質問する予定であると述べた。「しかし、彼女が大統領になったとき、その約束は守られず、アチェを軍事戒厳令地域としたままだった。現在、アチェはすでに平和になった。わたしたちは彼女にアチェの平和を永久に守り、 2度と衝突が起きぬよう支援してほしい」(Suara Pembaruan, 06/02/20)
[PR]
by NINDJA | 2006-02-20 12:00 | 和平への動き
○東クアラ・クルト村を再訪
 17日夕方、日本から大学生3人がロスマウェに到着しました。これから一緒に活動することになります。その初日である18日、タナ・パシール郡東クアラ・クルト村を訪れました。これまで仮設住宅住まいだったのが、やっと家が建ち、人びとも村に帰ることができたからです。
 東クアラ・クルト村と隣のマタン・バル村の、津波で夫を亡くした女性たちに、現在の状況などについて聞きました。

<東クアラ・クルト村の状況>
・現在ある援助は、WFPからの食糧である。1人あたり月、援助米は10kg(以前は12kg)、魚の缶詰2缶、食用油5オンス、インスタントラーメン5袋。政府が約束した生活保障金月9万ルピアはせいぜい2月に1回しかもらえない。
・ドイツのHELPが家を建てたが、台所が狭すぎたため、仮設住宅でつかわれていた木材で改築しなくてはならなかった。この改築のために、大工への支払い15万ルピアかかり、WFPからの援助米(日本政府の支援)を売却している。
・HELPが建設した家のトイレは、まだ使用してはいけないと言われている。修理が必要らしい。
・以前は20万ルピア払える人が電気を引いていたが、今後どうなるのかわからない。HELPが建設した家には電灯がついているが、電気は来ていない。
・清潔な水は、水道公社がトラックで運んできて、手押しポンプ5カ所に貯める。
水を汲みにいかなくてはならないが、男手がなくたいへんである。夕方になると足りなくなる。井戸の水は塩水で、マンディ(水浴)するのもつらい。
・仮設住宅にいるあいだ、子どもが、漁に出る男性がいる家では魚を食べられるのを見なくてはならなかった。いまは各世帯で食事をするから、村に帰ることができて、本当に安心した。

<マタン・バル村の状況>
・マタン・バル村では、どこかの団体(女性は知らず)が家を建てているが、資材が足りず、まだ1軒も完成していない。第1段階として、約310世帯のうち70世帯の建設がおこなわれている。
・マタン・バル村の人びとは、いまだに仮設住宅で暮らしている。クアラ・チャンコイ村の仮設住宅が足りなかったため、クアラ・チャンコイ村の一部の人びともマタン・バル村の仮設住宅に入っている。
・津波で夫を亡くした女性3人は、仮設住宅の1部屋に入れられている。すでに年老いており、祈りの生活をしたいが、それぞれの孫が来て騒ぐため、祈りの生活が妨げられる。1人で生活したい。

 なかでも印象的だったのは、東クアラ・クルト村のある女性です。彼女には9歳、5歳、3歳の子どもがいました。津波に襲われたとき、9歳の子どもは父親(彼女にとっては夫)と、 5歳、 3歳の子どもは彼女が連れて逃げました。しかし彼女の手から 5歳、 3歳の子どもは離れてしまい、津波に呑まれました。さらに9歳の子どもを連れて逃げた夫も死にました。
 残った息子1人と暮らす彼女は、おしゃべりの合間に、こうつぶやきました。「いまは、ちょっとしたことを頼むのでも、なんでもおカネだから…」
 インドネシアでは「ゴトン・ロヨン」と呼ばれる相互扶助システムがあります(ときに政府に利用されることばではありますが)。マタン・スリメン集落での道路修復も、西ランチャン村の水道建設も、ロッ・ウンチン村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習をする場)建設も、わたしたちは資材を提供し、飲み物代を出すだけで、みんなのゴトン・ロヨンでおこなってきました(大工が必要な箇所以外)。
 いっぽうで、避難民キャンプや津波に襲われた水田や養殖池、塩田の掃除に賃金を出した団体もあります。津波被災者がもっとも必要としていたのは、現金を獲得することですから、この「food for work」プログラムを否定するつもりはありません。
 しかし、わたしたちは、1回きりではなく、継続的に現金収入につながる道具を支援することを選択しました。被災者たちも、わたしたちの支援が、どこかの財団からの資金によるものではなく、日本の人びとからのカンパだと知っているので、みな理解もしてくれました。
 いま友人たちは、「援助で村社会は崩壊した。ゴトン・ロヨンの精神はなくなった」と言います。夫を亡くした女性は、その被害をもろに受けています。

 女性たちとの話し合いで、わたしたちの1年前の支援にも問題があったことがわかりました。
 1年前、わたしたちは、サウォッ・サベェ、サウォッ・シランと呼ばれるエビを獲る漁具を支援しました。実は、女性もサウォッで漁をしていたにもかかわらず、支援対象にならなかったのです(クアラ・チャンコイ村では女性にもサウォッを支援)。
 東クアラ・クルト村を担当した友人(割合と新しい女性スタッフ)に確認したところ、たしかに女性たちからサウォッ漁をするという話を聞いたが、村の責任者になった男性から「それは男性の仕事だ」と言われたとのこと。さらに男性がサウォッ支援を受ける名簿を作成した際にも、女性たちのことを確認したが、そのままになってしまったというのです。
 女性たちからそのような話が出て、責任者の男性が否定したなら、責任者の男性を通さず、直接女性にサウォッ漁をおこなう女性の名前を聞くべきでした。さらに、この女性スタッフが、事務所の別の友人たちに相談していれば、何らかのアドバイスが得られたでしょう。
 さらに女性たちによると、この村の責任者の男性は、自分の近所の人間のみ名簿に加えたなど、ほかにも問題を起こしているようです。女性たちは、村の責任者の男性に対して不信感と不満をもっており、幸い、わたしたちのことはまだ信頼してくれているようです。この問題をどう解決していくのか、早急に話し合い、女性たちの信頼を失わないようにしなくてはなりません。
[PR]
by NINDJA | 2006-02-19 21:18 | NINDJAの救援活動