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2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●避難民、口を閉ざすよう命じられる

 1月6日11時、「プレス」と書かれた車が、ロスマウェからバンダ・アチェの方向へやってきた。
 ビルン県ジュニブに到着し、車はウィンカーを出して減速した。そして、避難所となっているムナサ・ジュニブ前で停まったのである。
 記者がやってくるのをみて、あるテントでは命令が出された。「インドネシア国軍は、住民が記者に近づき話すことを禁じる。記者の存在に益はないからだ」住民のひとりは、命令者を真似てそう言った。
 しかし記者たちは、何も感じなかったようだった。ある者は、カメラをもって車から降り、ムナサに入っていった。住民たちは、笑顔と「どうぞ」とうなづいて迎えた。
 そこには警戒にあたっている国軍兵士も何人かいた。しかし彼らもまた、記者に対して親しげな態度を崩さず、握手までした。記者の何人かは、国軍兵士と話し、テントに向かった。避難民たちは笑顔を返したが、記者に近づいたり、話したりする勇気がある者はなかった。
 避難民たちは、記者に、避難所でのあつかいについて嘆きをこぼすのがふつうだ。それどころか親戚について尋ねたり、携帯電話を借りたりすることもある。
 しかし今回は違っていた。
 記者たちは、何の関心も払わずに撮影していたし、兵士たちも、何も関心を払っていないようだった。目線をかわすたびに、彼らは笑顔になるが、その笑顔もすぐに消えてしまうのだった。
 呆然として座っているひとりの女性にシャッターが切られた。そして、何人かで話している人びとも。兵士はずっと、絵を探してまわっている記者の行動に注意した。そこには学生ボランティアがいた。彼らは12月26日、サマランガの遺体の収容を終えて以来ずっと、この避難所で活動していた。
 最初、ここには兵士はいなかった。学生たちが可能な限りの支援をおこなっていたのである。しかし12月29日、国軍兵士が来て、彼らの部隊名とここに国軍の支援ポストがあると記した横断幕を張った。ムナサの門に掲げられていた学生たちの横断幕は外された。
 避難所の規則も大幅に変わった。援助はすべて兵士を通さなくてはならなくなった。誰も拒否する勇気はなかった。記者が来るようになって、ひとつ規則が追加された。住民は、記者と話してはならないと。(Aceh Kita, 05/01/10)
by NINDJA | 2005-01-10 12:00 | 国軍の援助妨害