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2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波でもっとも被害を受けたアチェ状況と支援活動について、インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)が伝えます。


by NINDJA
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●インドネシア政府と軍、災害に対して遅い対応

 『ニューヨーク・タイムズ』紙ジェーン・ペレス記者のバンダ・アチェ報告。被害のもっとも大きいインドネシアが、何故、その対応がもっとも遅れ、支援の申し出を受け入れないかを分析している。
<要旨>
 アチェに駐屯していたインドネシア国軍兵士の多くが職務放棄して安全な場所へ逃げたため、救援活動に大きな支障をきたした。政府は災害発生後の数日間、海外からの緊急支援の申し出を断っていた。分離主義グループと戦闘状態にある国軍は、外部からの緊急支援に懐疑的な対応である。

 アチェ州を30年以上も統治してきた国軍は、州都バンダ・アチェの半分をさらっていった12月26日の津波災害の救援活動でもっと容易に人員を動員できたはずだ。しかし、そこには問題があった。車両を運転するほとんどの兵士が安全な場所を求めて駐屯地(ポスト)を離れてしまったのだ。なかには数百マイル以上も先に逃げてしまった兵士もいる。
 国軍の運転手が大挙して職務を放棄してしまったことで、災害の生存者を助けたり、死体を収容したりするのに必要な国軍のトラック、重装備機材がつかえない状態になっている。
 津波で最大の犠牲者を出した国インドネシアが、どうしてその重大さに迅速に立ち向かえないのか、そして世界中からの援助の申し入れを理解するがどうしてこんなに遅いのか、その理由を示す事例のひとつが上記のようなことだ。
 一般のインドネシア人の多くは、政府よりもずっと支援の必要性を理解している。遺体がいまだに放置されている道端で、『ジャカルタ・ポスト』紙の編集長エンディ・バユニは、外国からの支援の申し出を断る政府を叱り飛ばしていた。エンディは紙面の論考で「アチェを裏切るな―調整せよ」とヘッドラインをつけた。記事の最後でエンディは、「わたちたちのアチェを救え、わたしたちの魂を救え」と結んだ。
 国軍の懐疑的な態度は先週末、2人のアメリカ海軍の医師がムラボーに到着したときに表出した。支援を申し出たこの2人のアメリカ人医師に対して、疑い深い地元軍司令官は、「ここで何をしているんだ?」という言葉で迎えた。最後には国軍司令官の敵対心はなくなったとのことだが、この例からわかるように災害が起きた直後の数日間は意思疎通に障害があった。
 この障害の大きな要因はつぎのとおりだ。内戦が断続的に30年も続いている、インドネシアのなかでもっとも隠された地域、アチェ。ここで大惨事が発生したときに、国軍はアチェ分離主義者たちがこの混乱につけ込むのではないかと疑った。これとは対照的にスリランカでは、政府と反政府グループは休戦を守り、救援活動は順調に進んでいるようである。しかし、アチェでは、災害が起きる以前、外国人は実質的に入域が禁止されていた。アチェに入るジャーナリストは許可が必要で、その許可が下りることはほとんどなかった。だから、外国政府や団体がバンダ・アチェに救援機を着陸させたいと頼んでも、インドネシア政府は250マイル離れたメダンに着陸するよう強く主張した。メダンからバンダ・アチェまでは車を12時間走らせなければならないのだ。英国の援助機関OXFAMが空輸した浄水器は許可がないとして、何日も足止めをくらった。
 土曜日にユドヨノ大統領がバンダ・アチェを訪れ、方針が変わった。国際航空機はバンダ・アチェの軍用飛行場に着陸できるようになった。アメリカ軍のヘリコプターもやってきた。
 アメリカはクリントン政権時代、インドネシアの人権問題を理由に公式な軍事関係を断った。「平常時、インドネシアの悪夢はアメリカ海軍がバンダ・アチェにやってくることだ」とアチェで数年間援助ワーカーとしての経験をもつダニエ
ル・ジブは語る。「しかし、いまや非常事態のさなかにあり、アメリカ海軍も来ている。これは前進の兆しだ。ふつう、インドネシアはこんなことは絶対に我慢できないはずだ」
 いまやアメリカ軍はアチェの空軍基地でインドネシア国軍兵士と並んでキャンプを張っている。10日前だったら考えられないことだ。
 「プライオリティーを設定して、各機関のコーディネーションをしなければならないということを役人は理解していない。ここに政府対応の悪さが反映している」と「津波被災者のための市民社会連合」全国コーディネーターのエミー・ハフィールドは指摘する。地震や火山爆発のあるインドネシアには、アメリカにあるような連邦緊急事態管理局(FEMA)はまだない。津波が発生した直後の数日間、政府はさまざまな団体からの申し出を断った。「政府はわたしたちを信用していないのよ」とエミー・ハフィールドは言う。多くの悲鳴があってやっと、ハフィールドたちのグループは、津波で汚水を飲み込み肺機能をおかされた子どもたち75人をバンダ・アチェからジャカルタへ飛行機で搬送することを許された。
 遅れた政府の対応に、市民活動家だけでなく、政党、とくにとてもよく組織されたイスラーム系の幸福正義党が動きはじめた。目立つTシャツを着た幸福正義党のメンバーの姿は、町中でもっとも被害の激しい場所のいたるところに見られる。彼らは遺体を捜し出し、衣服を配布していた。
 アルウィ・シハブ国民福祉調整相は先週末から現地で陣頭指揮をとっているが、いまの救援活動のペースではまだだめだと言っている。国軍兵士が他州から集められ、機材のオペレーションにあたっている。シハブはバンバン・ダルモノ将軍を救援活動の指揮官に任命した。ダルモノ将軍の最初の指示は、橋の上に積み上げられている遺体を収容することだった。(The New York Tims, 05/01/03)
by NINDJA | 2005-01-03 12:00 | 国軍の援助妨害